1話<2話<3話<4話<5話<6話<7話<8話<9話<10話<<『憲法を二つ立てる』11話(終)
国民の気分は移ろいやすいから信頼できないし、信頼したくない本心すら抱えても無理からぬことではある。
だが、デモクラシーとは元々そういうものだ。
「Democracy」を語源に忠実な「民衆政治」ではなく、「民主主義」と訳してしまったときから、日本人はデモクラシーの呪縛にはまってしまった。
主権者が民衆であるからこそ、政治には善いときもあれば悪いときもある。それが民衆政治の真実だが、デモクラシーを民主主義と理解したとたん、民衆は絶対に庇護されるべき対象となり、民衆がどんなに愚かで不完全でも、その声は揺るがない地位に座することになった。
そして、あの戦争での敗北と惨事が、民衆政治ではなく民主主義のほうを頑なにコーティングした。
戦後の民衆は、自己の判断力と行動力を反省するのではなく、そもそも民主的な機会を任されなかったから失敗したと発想を転換させ、民衆の性質にも上等と下等があるというシンプルな常識を意図的に忘れた。
良くいえば、自らの野蛮を封じ込めるための精神のアクロバットだったとも思う。
しかし、いつまでも「日本人は野蛮だから」と自虐に耽っていては、それこそ本当のデモクラシーは成立しない。
自虐史観の方々は、自分たちを野蛮とは思わない慎ましい若い世代の勃興に気付けない。
バブル経済に浮かれることを知らず、可もなく不可もなくではあるが、大幅に秩序を乱すことなく安全・安心に生きてきた地道な道程に自負がある世代が現れたとしたら、それは真っ当なナショナリズムへの転換に必要な重要な途中経過かも知れないのに、自虐史観の方々は気付いても理解しようとしない。
野蛮と理性の境界を見定めながら進む葛藤と勇気があってこそ本当のデモクラシーであり、だからこそ、デモクラシーはやはり民主主義ではなく民衆政治であるべきなのだ。
法律にはハードルとしての作用と、セーフティーネットたる役割の双方が備わっているのは広く知られた理解であろう。
私が考える政体の憲法がハードルなら、国民の憲法はセーフティーネットに当たる。
国をセーブするだけの資格があるかどうか。それを問い続ける意味でも憲法は再定義されるべきではないか。
戦後レジームからの真の脱却はまだスタート地点にすら来ていない。