トーナメントのベスト8を懸けたクロアチア戦。
PK戦の末、敗れた日本代表に対し、各方面から健闘や惜敗の言葉が贈られる場面が目についた。
ホントにそうか。
疑り深い自分は、その試合を24時間遅れで、雑念を遮るため消音にした上で観賞してみた。
やはり惜敗ではない。
プレータイムのスコアは1対1だが、それ以上の差が随所にみられた。
気になった最も大きな課題は、ボールを持っていない日本選手たちの動き。
日本選手はよく走り、運動量が豊富とも言われるが、それはボールを持った相手を追い掛ける際のリアクションのことであって、自分たちがボールを持った瞬間の運動性は、強豪の諸外国に比べ見劣りする。
クロアチア戦でもそれが気になった。
ボールをキープした味方に対し、別の仲間がこう動く、だったら自分はこう動こう――。
こういった瞬間瞬間の判断、運動量が日本選手には少ない。
だからフリーの空間をつくれず、ボールがつながらない。
たまに相手陣内に侵入しても、結局は五分五分か、それ以下の確率のクロスを上げるプレーで終わってしまう。
クロアチアは逆にそれができていたから、日本よりゴールへの期待を感じさせるボール回しを展開していた。
守備面では、日本の選手は相手をマークし切れていなかった。
1秒前は背中でパスコースを消していた選手が、その1秒後にはポジションを微妙にずらし、フリーになる。
こうした選手に対しては、とにかく徹底的に密着したマークを意識しなければだめだ。
視界に入れているからマークした気になっているようでは、止められない。
そもそも攻撃面において連動を意識した運動性が乏しいから、相手にそれをやられた場合に虚をつかれたかのように後手を踏む。
走ったことによる疲れは日本代表が上でも、脳みその疲労はクロアチアの方が実は勝っていたのではないか。
日本人はチームワークが強み、と固定観念のようによく評価される。
しかし、そのチームワークとは所詮「感情の同舟感」というのが実態であり、起きている現象そのものは、個人プレーの切り貼り、パッチワークに等しい。
欧州や南米の強豪は、そこが違うのだ。
今大会、脳みその面で対抗できていたのは、富安と三苫、久保くらいか。
――感動をありがとう――
サッカーに限らず、この安っぽい糞セリフを耳にするたび、こんなくだらない言葉を生み出す国に生まれたことを恥ずかしく思う。
まさに「感情の同舟感」。
試合を観る側、応援する側にもそれなりの責任はあろう。
そう思いながら観ていたら、あんな糞セリフは申し訳なくて、出てきやしない。
次はまた4年後。
選手の一部は確かな質を示した。
三苫は尊敬に値する。
彼の、おそらく股関節・仙腸関節回りを意識しているであろう身体操作によるドリブルなどは見事だ。
この国のサッカーがさらに強くなるには、こうした選手たち周辺が鍵となるが・・・。
今の惨状をみると、せめて自分の真心を守る意味でも、あまり期待しない方が良いのかもしれない。