lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法に対するそもそもの誤解(9)~歴史はより劣化して繰り返す

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私には、憲法の変化を拒む人たちが一体何を怖がっているのか分からない。

 

彼らの心根を想像で白状してみよう。

 

「自由、自由と言いながら、私たちは規制されていないと眠っていた野蛮さが解放されそうで恐ろしいのだ。自分で自分を律するなんて高度な作法が身に付くなんて到底思えない――」

 

これへの反論は、

「我々は政府の横暴と国民の権利の侵害を危惧しているのだ。個人の心情の問題に話を落とさないでもらいたい――」

といったところか。


どちらの主張が勝るかは時間と議論の経過に委ねるしかない。

 

他愛ない憲法改正でも一度やってしまえば二度目は抵抗感なく進められるかもしれないし、二度目も同じだけ時間を要するかもしれない。どのみち、この国の法の支配を根底から覆すことは革命なしにはできないはずである。


革命なしに達成できたら、その先頭に立った政治家はなかなか賢いデマゴギーだろう。そんなデマゴギーも手続き的憲法の論に立てば一線を超えるのは阻止し得る。たとえデマを駆使しても手続き的憲法の枠組みでは積み上げた判例や、その元となった理念まではいじれず、国家の安定を維持できるからだ。それでも、すべてご破算にしようと強行する者がいたら、そいつは破壊者・侵略者である。

 

何にでも明確さを与えるというのは、必要以上に物事を決め過ぎてしまう恐れを伴うため、憲法改正に当たっては、ある程度の曖昧さは持たせておいたほうがよい。

 

ただ、その曖昧さの程度が不透明であるために、いわゆる左翼から見れば、権力者の専制への懸念が浮上する。

 

どの権力者も元は同じ国民であるなら、移り気な国民の誠実さなど信じるに足るはずがないのであり、権力者は信じられないというのは私もまったく同感である。

しかしそれなら、結局は国民自身が立派にならなければ立派な権力者は生まれない帰結にもなり、「権力者の横暴や未熟はわれわれ国民のせいだ」と跳ね返ってきてもいいはずだ。

この跳ね返りがこの国には乏しい。


明治憲法を引き合いに出したのは、まず理念型としての憲法の神格性を否定したかったからだが、明治憲法は当時の民度を推し測る上でも参考になるだろう。

これは明治期の庶民を愚弄する意味ではなく、人の在り様とは時代によってこうも変わり得るのかという確認を意味する。


明治期の人々から見て、果たして我々は進歩しているのか。

もし進歩しているなら、それに恥じないよう憲法を絶えず進歩させ続ける。憲法の理念などその程度で十分とも思う。

 

明治期も現代と同様、民衆の至らなさが社会の課題であったはずだ。

 

「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」

 

有名なこの一節からも、当時の民衆がいかに表面的な国の変化に迎合するだけで、文明の真意を推し測ろうとしなかったかが想像できよう。


民衆は一部の例外を除けば、とかく物質的な移り変わりにしか目が向かないものだ。あるいは心身の葛藤を予感しても詳しく実像を掘ろうとはしない。

実像を掘るとは、思いを言葉に表すということだ。

 

時代の荒波に飲まれ、内なる衝動に気付いておきながら語る術を知らず、語る時間や社交をつくらず、語る必要さすら記録しないのが凡人であり、文明開化とはこうした凡人を花咲かせるための一大社会事業だ、と期待した知識層はきっとあったろう。

 

期待は恐らく裏切られ、その末裔が我々となった。

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Francisco Ucha UchaによるPixabayからの画像

 

いや、口では期待を語りつつ、内心では期待通りにことが運ばないだろう未来を予測するニヒリズムくらいは既にあったのではないか。

誰よりも国際社会の獣たちを知る知識層が、自国民の貧弱さに愛着はあれども絶望してしまうのは無理からぬ反応ではある。

 

だからこその文明開化なのだが、民衆の関心はざんぎり頭の域を出ない。一部士族らの自由民権運動といったところで流行りのお題目に近く、長期的視野で論陣を張れる傑物はごくごく稀であったろう。

そして、その歴史はまた繰り返している。

 

それでも、明治期と現代を比較したら、私は明治期に軍配を上げる。

今と当時が趣を大きく異にしている要因は時代の激烈さにある。