片山英一’s blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑲ 僕は決していい人間じゃないが、君たちにとってそんなに悪い人間だったかな

リストランテ・ヴェッキオのオーナー、フランチェスコ大滝には夢がある。すべてのものを愛し、裏切り、捨ててやるのだ。

本人は極めて明るい。この世の暗闇に埋もれないため、さらに濃い暗闇を持つ、ただの敗者はごめんだ。

他に方法があったとしても、彼は選ばざるを得なかった。生い立ちや境遇なんぞ無関係に、弱さと賢さを折り合わせた結果こうなる。

だから、あの斎藤一二三のことは目障りではなかったが、消えてもらおう。自分と似た生命力を持っている奴。勝手にやるだろう。

この国で、人生は長い。だから短くする必要がある。誰に何と言われようとだ。今は、無駄死にするなと無駄に生きてる奴らがさえずっている、たまに不幸に遭うと、生きてるだけで丸儲けだねとしみじみする。違うだろ。生きているから不幸だって付きまとう、堕落を免れたいから死が最後の砦になる。孤独を飼い慣らす常識が、今はどこへ行ったのやら。ヴェッキオとは熟成されたものを指すのだから、そこのオーナーが名前負けはできない。

「あなたも変わった女性だ」

鏡の前で化粧を直す女に囁いた。

 

「変わってるのが好きなんでしょ?」

「訂正しよう。あなたは、他に代え難い女性だ」

まずは愛する、フランチェスコの作法だ、例外はない。鏡に女の笑みが跳ね返る。卓上の電話が震えた。

「もしもし。うん、うん。分かったわ、いいんだって。唯ちゃんがもっと落ち着いたら、思う存分奢らせてあげるから」

朱美は振り返ってキスをせがんだ。フランチェスコは笑顔で応える。二人にはこなれた演技である。なぜ演技を交えてまで情事に暮れるのかと問われれば、楽しいから。演技をするのも観るのも、昔から変わらぬ庶民の娯楽なのだ。甘く考えてはいけない、そこに、真理に辿り着くヒントだって隠れてるかもしれない。

「まだもう少しいるのかい?」

「そうね。帰りたくなったら帰るわ」

「あと一晩くらいは過ごせそうだ。僕の店に来るといい、招待するよ」

「イタリアンのレストランだっけ。敷居が高そうね」

「朱美なら問題ない」

「じゃあそれを、この街での最後のディナーにしようかしら」

先に朱美が部屋を出ていき、今度はフランチェスコが鏡と向き合った。映る角度や表情を色々変え一言、「悪くない」

変な顔してると感じる日もある。違いがどこから来るのか、前日の酒や食事以外の理由でその正体が分かり、自在に操れた時、彼の命はエンディングへと加速する。

店の活気はいつもと同じようにも、大人しいようにも感じた。フランチェスコにとってはさほど重要でない、重要なのは売り上げだ。

「これはこれはオーナー。最近はよくお越しで」

太鼓持ちの多々良がすり寄ってくる。

「頭は大丈夫ですか」

「わはは、こんなたんこぶ、大したことナイジェリアですよ」

「うん?」

「大したことナイジェリア」

「そう。頭は大丈夫そうですね。上原君を呼んできてもらえるかい、僕は奥へ行っているから」

多々良はいささか心外な気持ちでフロアの上原に声をかけた。

「あとで密談の内容を教えてくれよ」

「いいですよ、嘘でいいなら」

執務室に入ると、フランチェスコが火のついていない煙草を指に挟み、椅子に腰かけている。

「やあ、適当に君も座るといい」

「オーナー、吸いたければ吸っても構いませんよ」

「いいんだ。何となく手持ち無沙汰でね。このニュース……」

テーブルの新聞を広げ、記事を指差した。「今世界じゃ、各国のトップが一対一の交渉で存在感を発揮しようと躍起だ。複数のプレーヤーが同じ秩序を維持し続けるのは無理がある。持論だがね、世界が追いついてきたようで少し嬉しいんだ。僕が妾の子供というのは君も噂で聞いているだろう。いいんだ、事実なのだから。幼い頃、自分にはどうして父親がいないのだろうと不思議だった。悲しくはなかった、ただ不思議だったんだ。その悩みが僕を孤独に負けない、賢い人間に育ててくれたと思っているよ。結局は、僕がこの店のオーナーだしね」

「はあ」

「僕ほどではないにせよ、君も苦労を背負っているだろう。本題に入る前に少し聞きたいね」

「何をです」

「君の原風景の話さ。人間はいがみ合う前に互いを知る必要があるだろ」

上原の瞳の輝きが濃くなる、フランチェスコにはそう映った。

f:id:eichi_katayama:20201127225625j:plain

「原風景なんて大それたもの自分には。ただ一つ、子供の頃、悪い先輩の命令で万引きしそうになって、怖くて逃げましたけど、あの日の情けない気持ちはずっと付きまとってます」

「それだよ、貴重な情報だ。やっぱり煙草、吸わせてもらおうか、吸いたくなってきた。君はやらないんだっけ」

「ええ。一度は料理人を目指した身ですから」

「僕は料理人になろうなんて考えたこともない。がきの頃の夢はパイロット、野球選手、宇宙飛行士、月並みだろ? けれど、この店はいつか自分のものになるんじゃないかって、そう予感してた。だから手に入れた時は、ああやっぱり、と頭の中でつぶやいただけだ。自分の認識力には改めて自信を持てたけどね。

僕の最大の武器は、僕自身の中にある。節目節目で、この力が助けになった。死ぬまでに最高の水準へ高めてやりたいもんだよ。

僕はね、上原君、君が好きさ。君が別の感情を持っているのは知っている。斎藤君に肩入れしていることも。その上であえて言うんだが、どうだ、ここに残らないか。玲子から聞いていてね、女の勘らしいが、彼女の場合は当てになる。それがなくとも、きっと同じことを言っただろうがね」

「彼女は、オーナーに憶測を打ち明け、自分を引き留めるのを期待したんでしょうか。そうは思えない。もっと別の意図があったのかもしれません」

「興味深いね。続けられるかい」

「下品な言い方ですが、彼女はオーナーの女、ですよね。その最後の義理、だったんじゃないか。斎藤と一緒に自分も辞めるだろうと気付いた彼女は、彼女自身もある決意を持った。だとしたら、オーナーに告げ口したのも納得できます。彼女の性格が、自分が考えている通りならおそらく」

「玲子が僕から去ると。いい想像力だね。玲子のこと好きなのかい」

「別のある女性について考える時間が長くなってて。思考の派生が利くのかもしれないです」

「なるほど。やはり失い難いな。返事を聞こうか」

「自分は、辞めます」

「辞めてどうするんだ」

「あいつ、斎藤とまた店を始めるつもりです」

「そいつは脅威だな。僕が黙って見過ごすとでも。既に前例だってある」

「お好きなように、としか言えません」

しばしの沈黙。厨房の騒々しい振動が部屋まで伝わってきて、「そろそろ行かないと」上原が腰を上げた。

「最後に一つ、答えてくれないだろうか。僕は決していい人間じゃないが、君たちにとってそんなに悪い人間だったかな」

「出会い方や、出だしの付き合いのせいもあるんじゃないでしょうか。出だしの悪さは尾を引く、いい出会いはいつまでも忘れられない」

執務室で一人になり、フランチェスコは愉快だった。好敵手が現れたようで、面白いじゃないか。まずは愛する、どんな時も彼の流儀は変わらない。そして、やられる前にやる。イメージを膨らませるように煙草の煙を目で追った。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑱ 属した場所より、属した精神に殉ずる

支配人の多々良が顔を出した。

「お二人さん、昨日の休みはゆっくりできたかい。僕は、ふあーあ、サッカーの見過ぎで寝不足だよ。今日はお客さんもそれほどだから、養った英気を一気に消費することもないだろう」

「一日休んだくらいで回復するような、なまっちろい働き方してません、私」

「ふうん、そいつは結構だね」

……何が結構よ。

この瞬間の真実の気持ち、安西にもよく想像できた。

「多々良さん、サッカーってブラジル戦、それともフランス戦?」

「いんや、コスタリカ戦だよ」

「ああ、そうなんですか……。経営にもきっと生かされてますよ、その渋いセンス」

「そうかな、ありがとう」

……褒めてないって。真実と安西の思考が同調した。

f:id:eichi_katayama:20201124231357j:plain

斎藤の出勤が遅い気がする。こう感じたのは真実だけだったかもしれない。

「おはよう」

あえて気だるさを演じる、いつもの調子だ。

「珍しいじゃないですか、多々良さんが厨房でコックと談笑するなんて」

「うーん、斎藤君に突っ込まれると嬉しいね。僕も、君に一度してみたいよ」

「だったら早めにしといた方がいいですね。ちんたらしているうちにチャンスがなくなる」

これを聞いて真実の顔が紅潮した。

「やっぱり、辞めるんですか?」

通せんぼするように前へ出た。

「ああ、この店でできることは、もうない」

あっさり冷たく見下ろされた。いけない、予想を上回る相手の言動だ。さっきまであった彼女の強気が一気にしぼみ、冷えていく。

ああ、私は、この人に、勝てない……。

自分の無力さが怖くなった。

……私には、この人をどうこうすることなどできない。

「できる、こと……」

斎藤は聞こえないふりをした。しかし、安西は聞き逃さなかった。

「料理長が辞めるってことは、俺が昇格ですかね」

真実の通せんぼとは毛色が違う。もっとぐっと腰を入れ、立ち塞がった。

「かもな」

「思っていた形じゃあないけど、出世は出世ですよね」

「そうだな。おめでとう」

「よして下さい。そんなこと思ってもないくせに。無責任じゃありませんか、俺もあいつも、まだ全然半人前なのに!」

多々良が唇を尖らせた。こんな気合の入った安西は初めてではなかろうか。

……ははん、さては彼女に気があるな。

彼の思考レベルはこの程度である。だから長生きもできるのだ。

「辞めるなら俺たち、いや、どちらか一人でも一人前にしてから辞める、それが料理長の務め、筋ってやつでしょ」

「どうだろうな。一人前になったかどうか、そいつは自分で決断するもんだ」

「初耳ですね、そんなの」

「俺も、初めて言ったよ」

厨房の空気の流れが渋滞する。安西は肩に力が入り、真実は胸を痛めた。

斎藤が包丁を研ぎだし、滑らかな手つきに二人が嫉妬する。二人に情がないわけではないが、斎藤自身に迷いはない、というより迷う選択肢などあるはずない。

いつ死ぬのか分からない以上、所詮死に向かって歩き続けることしかできない。その道程が途中で誰かと重なる時期もあれば、永遠に離れてしまう運命もある。起こり得る結果より、行為の熱量に重きを置いて満足するのが運命人。上原の持論だ。何度か斎藤も聞かされ、共感はしている。

あえて加筆・修正するとすれば、何でもいいから行為の熱量に重きを置き、自分を誤魔化すのが運命人、といったところか。

「辞める前に、壮行会でも開こうか?」

「その気もないことを」

「僕は支配人だよ、責任感くらいあるさ」

「責任を感じるだけなら小学生でもできる」

「ひどいなあ、うちの子供だって、もう高校生なんだから」

「多々良さんだけじゃないから。俺も同類ですよ」

「そう言われると、溜飲が下がらなくもないね。けれど現実問題、斎藤君がいなくなったらどうなるんだろう。この店の伝統の味とは、今や君自身といっても過言じゃないからね。安西君も自分で認めている通り、この二人はまだ半人前。誰かいい代わりでも見つけてるのかな、フランチェスコオーナーは」

安西は気分を害した。確かに自分で言ったこととはいえ、こんな引用は不本意だ。自虐とは自身へのひねくれた叱咤であり、他人につけ込まれる弱みではない。

この頃フロアでは、上原が丁寧にテーブルを拭いていた。

掌をいつもより長く、押し込むように。   恩義は忘れる必要はないが、囚われては愚かしいので、この行為は去り際の愛撫に過ぎない。斎藤と同様、上原には属した場所より属した精神に殉ずるきらいがある。一日経つごとに機会も減っていくから、せめて優しくもなるのだろう。

背後から、玲子の視線が注がれる。

「彼女のそばには、もういなくて大丈夫なんですか」

まだ凡庸なふりをしてしまう。上原は背伸びした。

「彼女じゃないから、そばにはいられないよ」

「意外。そんな言い方するなんて、相当入れ込んでるって自白じゃないかしら」

「まったくだ、死にそうになるよ」

「羨ましい」

「何が?」

「彼女、いえ副支配人の方かも」

「オーナーとうまくいってないの?」

「元々清潔な関係じゃありませんから」

「意外だ。君は純粋なんだ」

「マジで、死にそう」

戻ってきた多々良が近寄ってくる。

「まいったなあ。斎藤君、本当に辞める気みたいだ」

「説得なさったんですか」

「どうだろう。かえって背中を押したかもね。君からも何か言ってやっておくれよ」

「俺も背中を押すでしょう。無責任な人間ですから」

「上原君を無責任というなら、この世はもうお終いさ。誰も立派な人間には近付けんよ」

玲子が意地悪く、「立派な人間に憧れでも? 頭を打ったせいかしら。たんこぶが消えたら元に戻りますように」

「僕だってね、生まれた時から適当だったわけじゃないんだよ。今の社会が、時代がこうさせるの」

「屑ですね。抗う気はないんでしょうか」

「誰もが強くはないのよ。君たちには別の未来がまだあると願いたいね」

上原が小気味よく、「未来ですか、考えると憂鬱です」

「二人とも嫌な性格。けどそれが、必要なことなのかもねぇ」

今度は斎藤が、厨房から出てきた。

「支配人は油を売るのが仕事のようで」

「嫌なのがまた一人。君の話をしてたんだよ」

「へえ。そうなのか、上原」

「まあね」

「斎藤さん、副支配人を道連れにする気でしょう」

「おいおい、素晴らしい直感だ。なあ」

「はは」

「連れ去る道があるだけいいよ。で、何の話だい?」

この光景を、真実が苦々しく見つめている。多々良は置いといて、あとの三人は馬が合うように見えるじゃないか。環境に亀裂が入ったことで、自分との違いが顕著に映り、憧れと理解が別の認識であるのがよく分かってしまう。

安西だけが、厨房で無理矢理手足を動かしている。

この青年に、深い感情と向き合える度胸はまだでき上がっていない。未熟でも熱はあるから、震えのような手足が止まらず、目の前の壁はすべて壊してやりたくなる。ああ、字だけは似てるのに、生まれるのと生きるのとは、こうも違うものか!

 

続く

【小説】ディナーのあと⑰ 「私に興味を抱く男が他にもいることを楽しみたいの」「理由はどうあれ、味が変わる店は最低だ」

「唯ちゃんも言いたいことがあったら言ってよね。聞いてあげるんだから」

「無理だよ、朱美さんみたいに面白くなんか話せないもん」

「馬鹿ね、私みたいである必要なんかないじゃない。あなたにはあなたの、それこそ、私にはない可愛らしさがあるでしょ。それを磨いたら、あなたきっと誰よりもセクシーになれるはずよ」

「セクシーか。具体的にどういうことなの、私にもっとエッチになれってこと?」

「家庭的なんだけど、どこか開放的。ポイントはそこね。あなたが身内を大切に思う点はよく分かってるから、あとは、持ち前の可愛らしをもっとオープンにすればいいのよ。簡単でしょ」

「凡人だから、私」

「こっちはそんな風に思ってないから。別に誰かさんみたいに、男遊びしろって言ってるんじゃないんだからさ。同じ女として、いい女を観てみたいだけなの。独身に戻ったんだし私からしたらホント、チャンス再来。まだそんな気分じゃないかもしれないけど、早めに準備しとかないと、気になる男が現れても逃しちゃうわよ」

「そんな人、見つかるかな」

「ふーん。まさか、見つかるはずがない、と心底思っているわけじゃないみたいね」

「どうして」

「見れば分かるの」

「よく聞く台詞だな。そこんとこ、どなたか具体的に分かりやすく手短に説明してもらえないかな」

「あなた、ホントに気付いてないの、自分の魅力を。それとも気付いていてすっとぼけてるのかしら。だとしたら生娘じゃあるまいし、そんなことはやめなさいな」

「魅力的な女が離婚なんてするのかな」

「女の魅力と、男との相性は別だから」

「相性を見極める方法は?」

「とりあえず付き合う、と言いたいとこだけど、あなたには向かなさそうだから、そうね、まずは認めなさい、好意を抱く相手が現れたら、素直に好きだって。その上でじっくり観察するの。このじっくりってのが肝心で、気持ちに急かされちゃ駄目よ。じれったくて私向きじゃないけど、時間をかけるというのは一般的に万能な技術だと思うわ」

「じっくりか……」

もう昔から知っている相手でも同じだろうか、と聞いてみたくなる。朱美の話は聞いてる分には興味深く、色々引き出しを開けてみたい気にさせるのだ。

「その餃子もらっていい? このお店、適当に選んだのだけど味は悪くないわね。こういう勘というのは、上手く働く時とそうでない時がはっきりしているわ。こっちに来てからは比較的いい感じかしら。実はね……」

朱美も、気を許せる友人との久しぶりの時間に唇が滑らかになる。昨晩知り合った男との情事を話し始めた。

「関心しないよ、私は。そのうちきっと痛い目に遭うと思うよ」

「いいんじゃない。戦争以外で、まだ私が経験してないことだもの」

 

「不吉なこと言わないで。それさえなければ、朱美さん、ホントいい人なのに」

「お互い、それぞれが望む本当にいい女には今一歩のようね」

「どうして、旦那さんがそんなに嫌い?」

「私に興味を抱いてくれる男が他にもいることを楽しみたいの。今のうちしかできないことよ。そりゃあ私にだって、唯一無二の男ってものへの憧れはあるわ。でも無理でしょ、こんな国で。もうこの世は、欲望にまみれた者が活き活きできるのが道理じゃないかしら」

「ホントに活き活きしてる?」

「そう映らない?」

「分からない」

「子供のことを考えればね。けど、どうしようもない衝動があるの。今は無理でも、いつか説明できるようになりたいわ」

「もう説明できるんじゃない? 誰も聞き入れようとしないから話さないだけ」

「いいこと言ってくれるわね。だから好きなの、唯ちゃんのこと。賛同者ではないけど理解者。私がこんな感じでいられるのは唯ちゃんのおかげでもあるかもね」

「共犯者じゃないからね、頼りにしないでよ。別のことだったら、協力できれば協力したいとは思う」

「自分のことで手一杯なくせに。どうしても優し過ぎるのね。男は喜ぶだろうけど、友人には不安要素よ」

「はいはい、不安な行動してるのはどっちだか」

「はいはい。ほら、お酒進んでないわよ。もっと飲んで乱れないと今夜は帰さないんだから」

「はいはい」

「食べ物は?」

「お昼食べ過ぎちゃったから」

「意外と大食いなくせに何言ってんの。これとこれ、追加するから、付き合ってもらうわ。女の契りよ」

「仕方ない、契らせていただきます」

 

 ◇◇◇◇◇

厨房で、間真実の心中は穏やかではなかった。

手足の感覚がいつもと違う。集中力を欠き、次の作業を考えるのが遅れる、あるいは上ずる。頭に浮かぶ、あの日の斎藤の在り様が不快だ。

信じていたものは、自分に関心がなかった。厳しい優しさと思っていたものは、去りゆく人間の言い訳の恩着せですらあったのではないか。

手足の感覚だけではない、気持ちの乱れが味覚までおかしくしていく気がした。

「ういーっす、こにゃにゃちわー」

ここで、真実の気を知ってか知らずか、安西が厨房に。

真実の背後を涼しい顔で素通りしたら、唐突に世間話をしてくる。

「今朝ごみ出しに行ったらさあ、近所の奥さんと出くわして優しい微笑みを向けられたよ。ときどき出くわす人なんだけど、あんなのは初めてだったな。ありゃあ、あれだよ、もしかしてぇ、俺に気があるんじゃないか。なんちゃって。正直、顔はそんなにタイプじゃないんだけどね、体つきが……。

出産の経験がある女性はやっぱりちょっと違うよね。体つきに包容力というか深淵を感じる。この間さばいた牛のフェーザ(内腿肉)のようだね。いや、あれはジレッロ(尻肉)かも」

真実の耳には空気の振動でしかない。

f:id:eichi_katayama:20201122131901j:plain

「それに比べ男はなぁ、子供をつくったからって体に変化が起こることないじゃん。つまらない気がする。肉体の変化がさあ、内面まで変えることだってあると思うのに、男にはその機会がゼロなんだ。飲み食いし過ぎで痛風になるのは簡単なのに。

俺たちの仕事はさ、変化に敏感である必要があるじゃん。食材の旬、その日の天候、お客の嗜好、自分の体調、そのすべてに敏感になって昨日とまったく変わらない美味いものを創る。理由はどうあれ、味が変わる店は最低だ。変わりながらも変わらない技。それが、俺たちが求めるべき境地じゃないかな、って思う。だから……」

「何なんです、一体」

「え?」

「何なんですかと聞いたんです」

空気の振動もやかましければ耳障りとなる。

「のっけからセクハラ発言をしだしたかと思えば、急に哲人ぶって。誰かの真似でも? それとも情緒不安定ですか」

「それはなぁ……」

この後、安西は「今のお前に言われたくない」と続けようとしたが、やめた。続けていたら、きっとこんな風に進むとイメージが浮かんだ。

――どういう意味です?――

――そのまんま。厨房に入った瞬間分かった。気持ちは分かるけど――

――分かる?――

――好きだったんだろ、斎藤料理長のこと――

――出た、出ましたね。実に陳腐であるのに相手を理解しているような口ぶり。はあ、今の私の気持ちが私以外に分かるはずありません。安西さんのこと、元々尊敬していたわけではありませんが、今ははっきり、軽蔑させていただきます――

――俺は――

――軽蔑します――

――人の話を――

――しつこいと見下しますよ――

――この――

――さようなら――

まあこんな感じだろう……。

今の真実が耳を貸すとすれば、実は斎藤だ。耳を貸すというのは正確ではない。その口から、言い訳でも本音でもどちらでもいいから、面と向かって直接語ってもらいたい。それで最終的な判断がつく……。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑯ お前は俺の野心に当てられて、ちょっとのぼせてしまっただけだ

自分にとって都合のいい、陰湿な想像だと非難されるべきだろうか。

一般的にはそうかもしれない。だが今回のケースは違う。

上原はそれに確信が持てないでいる。

確信を持てたとして、状況に飛び込む勇気があるのか。いや、状況に飛び込んだとして、その先を引き受ける朗らかさが、冗談でも生きようとする気が、今のお前にあるのかと自問する。

自問するというのは自信のなさの裏付けといえた。好きになっておいて、一緒に暮らしていく気があるかどうかが怪しいのに、一緒にいたいからと、意味ありげな言葉を未練たらしく吐き続ける。

こんな説明をされる男が、駄目な男でなくてなんだろうか。

上原の前を勇人が小走りで通り過ぎ、テレビをつけた。いわゆるワイドショーの演者たちが時事ネタで討論のような言い合いをしている。「討論のような」というのは、論とは呼べない反射神経に頼ったオピニオンの応酬にしかみえないからだ。

彼らを見ていると物事を真剣に考え、深く理解しようという構えはまったく無駄骨に思えてくる。

これには神経質な見解だと捉える人も多いだろうが、公共の電波、ネットワークを使って述べた言葉には、時に人を励ます効果もあれば、時に虚しさを増長させる影響力があるものだ。真面目な人ほどこのパワーに殺される。だから、活きた言葉を探してさまよう。そして結局、予期した通りに、活きた言葉のあまりの少なさを知り、虚しさはどこまでも深まっていく。

唯と勇人のじゃれ合う姿が、この来たるべき現実ではなく、今の現実に上原をとどまらせた。

二人に笑顔を向けられ、微笑みを返す。一緒にカレーを食べよう、と単純に頭を切り替えた。

そこで、携帯電話が鳴った。

上原が部屋を出る。

唯は予感した。カレーは一緒に食べられないかな……。

f:id:eichi_katayama:20201119203843j:plain

「……唯、ごめん。同僚にちょっと呼ばれて」

「ごめんだなんて。ご飯作ってくれてありがとう」

「悪い。勇人じゃあな。おばさんすいません、今日はこれで失礼します」

「そうなの、残念ね」

「優ちゃんの分のカレーはちゃんと残しておくから」

「またすぐに来なさい。何なら、カレーは唯に届けさせてもいいから」

後ろ髪を引かれる感覚とともに、上原は家を出た。

この先は単純ではいられない。

いや、むしろ単純過ぎるほど結論が明らかであるがゆえに、話はすぐ済むかもしれなかった。

問題は、その場の結論が出たところで、この命はまだ続くということ。人生の厄介さが変わるわけでも、なくなるわけでもない。

上原が斎藤のマンションに入ったのは、これが二回目。数年前、酔いに酔った斎藤を嫌々介抱して運んだのが最初だ。

あの日は、どうしてあんなに酔ったんだっけ? 

思い出すより早く、熱いコーヒーが差し出された。

「俺のメンタルはその一億倍熱くなってる」

「分かってる。俺の舌を火傷させるのはだけはやめてくれよ」

「そこは料理人、コーヒーにだって手は抜かないさ。……まずは返事を聞いておこうか。こうなる前の返事だよ」

「オーケーさ。この先どうなるもこうなるも関係ない、どうなろうとオーケーだ」

「こっちが聞きたいことを先取りで答えてくれる。嬉しいよ。けどな、新しい店を出すための物件をあいつに横取りされた。付いてこいって、言える立場じゃなくなっちまった」

「また見つければいい。……そう簡単じゃないって言いたいか」

「そうだな。いやホント、大変だったんだぜ。あの苦労を分かち合えればなぁ。……わざわざ呼んだのは、こんな愚痴を聞かせるためじゃない、デートの邪魔してまでな」

「デートじゃないって」

「お前はどうなろうとオーケーと言ってくれたけど、本当にありがたい言葉だったけど、プランを変更したいんだ。俺は店を辞めるが、お前は残れ」

上原がようやくコーヒーに口をつけた。

「そんなのがプランと呼べるのか?」

「最善だと思う。自分のことは自分でどうにかなる」

「お前には腕があるからね。そんで、腕のないちんけな総務部の俺には、今の場所を離れるなと」

「そんな意味はない。新しい店を出すという条件がご破算になったんだ、お前が俺と一緒に辞める理由はなくなっただろ」

「辞めたい理由ならあるさ」

「俺はどのみち、もうあそこにはいられない。義理を感じるのと、義理を通すのとは異なる。このケース、お前が義理を通す必要なんて全然ない」

「お前には、俺の気持ちがよく分かるらしい。俺は調理場の死んだ食材とは違うんだぜ。今こうして話している間も感情は胎動を続けてるってのに、一方的に決めつけられるのは虫が好かないな」

「じゃあどうしたいんだ、お前は」

「決まってる。お前には俺が付いてくるのを許容する義務があると思うよ。俺をその気にさせた責任は大きいはずだ」

「だったらこう考えろ。騙されたのさ、お前は俺に。こっちの野心に当てられて、ちょっとのぼせてしまっただけだ」

「俺の手を引かせようとしてるのか、それとも苛立たせようとしてるのか、区別しづらい口ぶりじゃないか。はっきり言わせてもらう、この件について忠告は聞かない、議論をする気もない。やりたいように、したいようにさせてもらう」

こう言ってくるのと同時に出た上原の睨みに、斎藤は不覚にもたじろいだ。

こうも気合いを入れてくるなんてな……。

その衝動の正体が、自分への同情や友情だけでないことは直感で分かる。

「じゃあ、何が何でも付いてくるっていうんだな、お前は」

「うす」

「分かった、ありがとよ。もう何も言わねえ、一緒に地獄へ堕ちようぜ」

それから、斎藤は秘蔵のブランデーを開け、上原に振る舞った。

昔好きだった女の話を斎藤が始める。上原は程よくちゃかしながら、にやにやして聞いた。

……そうだ、これだこれ。あの時も、自分で話す言葉が肴になってどんどん酒が進んだんだ。

見通せない状況で勇気が出る面白い言葉、その形を、赤らんだ顔で斎藤と一緒に探した。

 

 

次の晩、唯は神楽朱美に呼び出され、駅近くの中華料理屋へ。

店に入ると、朱美が先に生ビールを楽しんでいる。唯もビールを頼んだ。

「時間ぴったりね。料理は適当に注文してあるから。食べたいものがあったら追加して」

「うん。はい、じゃあ」

「乾杯!」

のっけから、旦那への愚痴をネタに朱美が笑いをとる。

冗談なのか本気なのかよく分からない、恐らく本気なのだろうがウイットが効いているので、小話として十分面白かった。こうした会話の流れはいつものことだ。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑮ こんな女の愛が本当に欲しい?

「ほら、手を貸すよ」

「いいって」

「いいから」

「ありがとう……」

唯は上原の右手にゆっくり左手を乗せた。そうして上原の力で加速し、病院のベッドから立ち上がる。

疲れている。相手の顔から、お互いそう感じた。

f:id:eichi_katayama:20201116224929j:plain

唯からすれば、自分が倒れて病院に運ばれたと、仕事中に叔母から(軽い貧血であることは伏せられ)聞かされ、見舞いに来たら「快気を願う酒宴よ、うちの伝統なの」と急ごしらえの理由で無理矢理アルコールを飲まされ、病院の駐車場で車中泊を余儀なくされたのだから当然だ。一方上原には、唯の疲れの原因が分からない。

いや、仮に感づいていたとして、まさかな、と凡庸なふりをする謙虚さ、あるいは卑怯さが上原にあったのも事実だ。

唯を送る車中、上原は饒舌だった。唯への不安だけではない、安西豪太と間真実からの電話、さらには唐玲子からのメールで、昨夜の斎藤とフランチェスコとの件は十分記憶に上書きされている。

唯と一緒にいられるのは楽しいが不安でもある上、別次元の不愉快さが全身をまとい、饒舌などあるべき姿とは思えないのに、面倒な事態がかえって思考を明晰にさせていた。

「腹減ったな、朝飯も食ってなかった。……あのカレー屋、最近できたのか。カレーといえば、インドにマハトマ・ガンジーっていただろ。カレーで連想するなんて怒られるか。彼は非暴力非服従のリーダとして知られてるけど、一般的に日本人がイメージするところの平和主義者とはちょっと違ってたんだよ。彼なりの展望や予期を持ってイギリスの側で戦争に協力もした、複雑な人物だったんだ、最近知った。

現代人は色んなことを単純化し過ぎて、見誤ってる気がするよ。無理矢理にでも単純化しないと気が済まないんじゃないかともいえる。複雑なものを背負って生きるのが、嫌なのか。そんなはずはないのに。

でもまあ、確かに疲れるよな、複雑なのは。いや、悪い。勇人はカレー好き? よかったら作らせてくれない、俺が食べたいだけなんだけど。味は保証する」

「疲れてるでしょ優ちゃん」

「カレーを作って食べるくらいの体力は十分。じゃあ決まりだな。どこのスーパーで材料仕入れるか」

「野菜ならあるよ、ルーだって」

「違うんだ、素人には思い付かない工夫がある」

「それはそれは、申し訳ありません」

「プロほどじゃないけども。けどお前、食欲ある? 別なのがいいかな」

「大丈夫、美味しいものを食べるチャンスは逃さないから。……優ちゃんには帰る前にしっかりお礼しないとね」

「決めたの、いつにするか」

「何となく」

「もし、もしだけど、こっちへ戻ってきた動機と帰る必要を比べた時、動機の方がまだ重かったら、こっちにいれば」

「ありがとう。私ね……本当は帰る気なんかないの」

「え?」

「うそ。どきっとした?」

「人をおちょくる余裕があれば大丈夫そうだ。カレーのレシピは書いて渡すから、気が向いたら家族……食べさせたい人に作ってやればいい」

「優ちゃんには、してもらってばっかりだ。これは、お礼も真剣に考えないと」

「期待し過ぎない程度に楽しみにしとく」

「複雑なものと単純なもの、どっちがいい」

「お前が考える複雑さが何なのか、一度見てみたいし聞いてみたい。おっと、プレゼントをくれるなら、そっちは単純な金目のものがいいかな」

「お金なんてないから。もっといいもの考えてあげる」

「金目のものよりいいものって、じゃあ、あれしかないな」

「何?」

「愛」

「馬鹿じゃない。こんな女の愛が本当に欲しい?」

どう答えるか、上原はさっと考えた。気軽に愛を口にしたのは自分だ。唯の愛が欲しいという本音があればこそ出た発言だったが、状況に任せて気軽に本音までは言えない、明かしたくないとの気持ちが強く、別の気の利いた台詞が思い付かないか脳みそに力を込める。

くれるのならもらうよ、考えとく……馬鹿か、こんなのじゃ駄目だ、あまりに自分の気持ちから離れている、それにこれでは……。気持ちを上手に隠しつつ、唯の関心を繋ぎとめる方法は……まったく、俺はやっぱり卑怯者か。

この間、ほんの一、二秒しか経っていなかったが、タイムリミットだ。

「愛は、悪いもんじゃないよな」

十点満点で一点以下の解答、と即座に自己分析する。

自己嫌悪が漂い、唯の横顔が遠く感じる。唯の反応は「そうだね」の一言だけだった。

 

買い物を済ませ、唯の実家に着いた。

玄関に、叔母の原田千恵が迎えに出てきた。

「お帰りなさい。上原君、申し訳なかったわね。病人に対する妙なうちの伝統なのよ、悪習といった方がいいかしら。久しぶりに二人きりで話せたのは良かったでしょ」

「はは」

「叔母さん、勇人とお母さんは?」

「姉さんは美容院に出かけたところよ、勇人は奥で遊んでいるわ。それよりなあに、その買い物袋は?」

「優ちゃんがね、お昼にカレーを作ってくれるって」

「あら、それは嬉しいわね」

「口に合えばいいですけど」

「あなたの料理なら口に合わないはずないわ。そういうことなら、ほら、上がった上がった」

台所がかちゃかちゃ賑やかになる。上原の段違いの手際の良さに、手伝うつもりの唯と千恵は見入った。

手持ち無沙汰な唯のズボンの裾を勇人が引っ張る。

「ここは一人で十分だから。夕べ一晩いなかったから、甘えたいんじゃない。叔母さんは洗い物をお願いします」

「言うわね。イケメンに使われるのは嫌じゃないわ」

 

香ばしいカレーの匂いが部屋の中いっぱいに溢れてきた。

「ご飯ももうすぐ炊けるわ」

「本当はもっと煮込みたいんですけど」

「十分美味しそうじゃない。煮込む作業はこっちでやっておくから、明日か明後日でもまた来なさいな」

「叔母さん、優ちゃんは私たちのような暇人じゃないの」

「暇は学びの根源よ。私ほど暇である必要はないけれど、暇を知らない人間に大きな仕事はできないのが道理だわ」

「講釈はいいから」

「違う、道理だってば。物事を総合できる機会は暇な時だけ。暇に学び、学んで知るの。自分が何者か、何が好みで誰が好きかをね」

「はいはい」

唯の返事はさばさばしていた。けれど、その耳がじじっと赤らむのを千恵は見逃さなかったし、二人のやり取りに、上原も違和感を覚えないでもなかった。

上原の想像が独りでに先走っていく。

やはりうまくいってないのか、だからこっちへ……。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑭ その腕と哲学には敬意を表するが、それだけで出し抜けると思ったか

「話って何ですかね」

「あれだろ。前に言ってた、この店の今後の話じゃない。ねえ、唐さん」

「……そうね」

フロアでは、オーナーのフランチェスコ大滝が数名のスタッフらと談笑していた。数メートル距離を置いたところで斎藤が一人で佇んでいる。今の玲子は、斎藤にシンパシーを感じた。

フランチェスコは薄い笑みを玲子に向けてから、

「やあ、これで上原君以外は全員揃ったのかな。さて、本題の前に一つ言っておかなきゃならないことがあるんだ。今夜はね、僕の知り合いに来店してもらって、みんなの働きぶりを観察してもらってたんだ。僕がいるのといないのとで、サービスに差がないか確かめるためにね。みんなには悪い気もしたけど、必要なことだったんだ」

「スパイ、ってことですか?」

真実が率直に質問する。

「ちょっと表現に違和感があるけども、まあそんなとこかな」

スタッフたちがいささか騒がしくなる。一体誰が、もしかしてあの老紳士? だからいつもと違うメニューを? いや、あのサラリーマンかもしれない。俺たちの対応を試そうとあんな乱暴を? 小声でこんなことを言い合った。一方、斎藤と玲子は、あの老紳士がそんな面倒なことに手を貸すはずないと知っている。多々良はというと、あのサラリーマンに違いないと睨んでいた。

「老紳士? サラリーマン? 何のことだい、別に隠す必要もないから明かすけど、僕と同い年くらいの男女のカップルがいただろ、彼らさ。今夜はトラブルもあって大変だったらしいね。けどね、基本的にどの料理もサービスもやはり素晴らしいと評価してくれていた。鼻が高かったね」

この答えに、多々良はぐっと唇を噛んだ。

……そんな、じゃああれは仕込みでも何でもなく、ただ迷惑な客だったってのか? あのカップルは騒動が起こる前に帰ってる。私の、あの控え目で毅然とした立派な態度を見ていない。ちくしょう、こっちはいつも以上に腰を低くして頭まだぶたれたってのに……。

多々良の表情で、玲子は悟る。

……なるほど。オーナーから覆面調査員が来ることだけは知らされてたみたいね。

 

「必要なことだった、という意味は何です。覆面調査なんて面倒なことしなくても、このリストランテの料理もサービスも最高なのは分かりきっている。わざわざこちらのプライドを茶化すようなことをして、そこまでして何を確かめたかったんですか」

確信を突く斎藤の発言だった。

毒づく言い方に周りが心配になる。

話を再開しようとして遮られた形のフランチェスコは、玲子に向けたのと同じ薄い笑みを浮かべた。瞳は笑っているようには見えない。

「それをこれから説明するんだ。プライドを茶化すだなんて、とんでもない。悪かったなとは思っているよ。それでもあえてやったのはね、本当に必要だったからなのさ」

テーブルのワイングラスを手に取り、お決まりの演説スタイルに入った。

「本当に、本当に必要だったのさ、つまり、このリストランテの二店舗目をオープンする上でね!」

フランチェスコが期待した通りのどよめきが起こる。

「二店目をつくるんだ。そうさ、これが僕の新しいアイデア! もう物件の当てもある。来月に改修工事に着手して、そうだな、半年もかからずに完成するんじゃないだろうか。

僕はね、もっと世間に広めたいんだよ、このリストランテの素晴らしさを、世の人々にもっと認知してもらいたいんだ。この店の『ヴェッキオ』の名前通りに『熟成』された料理とサービスは、本当に素敵な価値あるものだから、もっと外へ出ていかなきゃならない、そうする義務すらあると思うくらいだ!

今回の覆面調査は、新しい店を任せるにふさわしい人材を最終判断、再確認するために行ったんだ。

いいものや才能ある人間は、同じ場所にとどまってちゃいけない、勿体なさ過ぎることなんだよそれは。もっと動いてチャレンジできるよう、そのための場所を用意するのが僕の役目さ。

そんな信念がこの店を引き継いでからずっとあって、しかし具体化できずにいたけど、ついに始動する。ヴェッキオの伝統を多くの人に伝えるため、新しいことへ挑戦する。伝統と挑戦、相反するような言葉だけど、だから僕はわくわくするんだ。矛盾を克服するために生きる、この世に人間がいる理由の一つだろうさ!」

この発表に、ほとんどのスタッフが驚きを隠せない。

今の店の売り上げをよく知る多々良は、

「大丈夫なんですか?」と平凡で真っ当なことを尋ねる。

「開店資金なら問題ないよ」

「どれくらい入り用で」

「そいつはあとで話そう」

「お店の規模やスタッフの手配は? ここの人手を分けるとなると、新しい人を探さなければならなくなるし、それは新しいお店でも同じだと思いますし……」

「重要なことだね。ここの何人かは新しい店に移ってもらうようお願いするけど、詳しいことは……」

ここまでの展開に、ほくそ笑んだ者が一人いる。斎藤だ。体中を駆け巡る苛立ちを抑えつつ、

……新しい店だと、伝統を広めたいだと? 馬鹿が、簡単に再現できるものか、俺でさえまだ道半ばなんだぞ。

フランチェスコのことを心底鼻で笑った。

f:id:eichi_katayama:20201114195711j:plain

……この野郎は前々から駄目な男と認識していたが、いよいよ烙印を押さなきゃならない。伝統を知らず、受け継ぐ意義もろくに考えたことないくせに、そんな奴が後釜についた世界で生きるなんざ、まさに生き地獄でなくてなんだ。あいつの顔には先代の面影もろくにない。

侮辱し過ぎだと思うか? いいや、全然そんなことはないね。

今のこの店は、俺もあいつも、どいつもこいつも、先人の知恵を自分のものにしきれちゃいない、それこそ、『受け』ただけで放置して、『継い』でなんぞいやしないんだ。意識しなくても常にそばにある、意識したら涙が出るほど体が震える、それが、受け継いだ者がなるはずの姿だ。

この店のオッソブーコはシンプルだが絶品だった。煮込み料理には創り手の人生が凝縮される、そんな気がする。あの老紳士は今日褒めてくれたけど俺なんかまだまだ。まだ高みを目指さなきゃならない。

だから、俺はこの店を出て、自分の店を出す。

場所はもう決まってる。不誠実な奴が牛耳る巣窟を離れて、やってやるさ。あいつもきっと付いてきてくれるはず。これが俺のプラン。フランチェスコよ、あんたがイタリア系のクオーターだなんてとても信じられないが、現実は受け入れよう。

お前も受け入れるがいい、貴様の実体を、足元の薄氷を! 

毒づくのはここまでにして、斎藤は来たるべき未来に集中し直そうとした。

「……とまあ、現状話せるのはこのくらいなんだけど。最後に新店舗の立地について話しておこうか。いい物件だよ、僕はラッキーだった、みんなもきっと気に入るだろう。新店舗の場所は……斎藤君、特に君にはしっかり聞いてもらいたいんだけどな」

スタッフの視線がさっと斎藤に集中する。玲子は眉間にしわを寄せた。

「斎藤君、君には特に重要なことなんだ」

「俺にですか、どうして?」

斎藤の苛々がまたふつふつと煮えてくる。

「どうしてって、君のおかげだからさ、新店舗の場所に出会えたのはね。場所は、あの……」

斎藤の両目が見開いた。

「馬鹿なっ!」

この叫びに、真実は戦慄した。

「そんなはずはない、あの場所は、あそこは、俺が!」

「そう、契約寸前までいっていたね。最終的に貸主は僕を選んだのさ。ほうら、この書類が証拠だ。料理人の君に物件探しの才能もあるとは思ってもみなかったよ、ありがとう」

「お前、お前はっ!」

「口を慎んでくれ。僕はこの店のオーナー、君は、どれだけ才能と野心があろうと雇い人なんだから。君の腕と哲学には敬意を表するけど、それだけで僕を出し抜けると思ったかい。君さえよければ、新しい店のシェフは君に任せたいんだ。野心が行き場を失った今、悪くはない話だろ、悪くは」

斎藤の拳が潰れるくらいに固まっていく。

その睨みを、フランチェスは薄ら笑いで受け流した。

安西や真実にはわけが分からない。厨房でも激昂することはあったが、今の斎藤はまるで別人のようだ。

玲子が危険を察し、斎藤の腕を掴んだ。凄い力だ、まったく動かない。飛びかかられたら女の力ではどうしようもないではないか。いや、それより、どうして私はオーナーを守るようなことを……。

玲子を振り切って斎藤はフランチェスコに飛びかかった。フランチェスコはまだ薄ら笑いを続け、男のスタッフたちが慌てて止めに入る。

真実にはわけが分からなかった。あれほど憧れ、尊敬していた料理長が別人のように取り乱し、怖くなった。

「斎藤さん! こんなこと、あなたらしくないんじゃなくて!」

玲子の、少し震えの混じる声だった。最後は多々良に肩を抱えられ、店の裏に下がっていく。

フランチェスコの薄ら笑いは完全な笑みに変わった。

「ふうい、お高いスーツなんだが。みんなはもうお帰りよ。この時間に付き合ってくれた残業代はしっかり払うから。いいよいいよ、片付けは僕がやる。さあ、みんなは帰った帰った。明日は休みか。明後日また元気な姿を見せておくれ!」

 

続く

【小説】ディナーのあと⑬ ひいひい言ってる、ぜえぜえ言い出す

斎藤の一喝に驚かないスタッフはいない。

当然だがお客たちまでびっくりさせてしまい、斎藤はパスタをテーブルに届ける過程で、態度を徐々に控え目に切り替える。

接客を済ますと、

「安西、お前は俺に何て言われたんだっけか? どういう状況だ、こいつは」

「はい、実は、かくかくしかじかでして」

「馬鹿なのかお前は。あれれ、ちくしょう、どういうわけだこいつは。多々良さん、そんなとこで座り込んでさぼってないで下さいよ」

「ひどいなあ、僕はねえ……」

「これはこれは料理長、お元気そうでなりよりだ」

「あれ、ああ、いや、こちらこそ、いつもありがとうございます。失敗した、一番の馬鹿野郎は俺だった。無礼な態度申し訳ありません」

「職人はそれくらいの威勢がなければ。むしろ、まだまだ足りないくらいかもしれませんよ。高みを望んで出てしまう無礼と、現状に胡坐をかく傲慢は、似て非なるものですから。それより、こちらこそすいませんでした。いつもと違う要望をしてしまって」

「ご満足いただけたか心配で」

「不満などありません。もし口に合わなかったとしたら、それはこちらの舌がおかしかったということです。幸いにも、そういったことはありませんでした。胃袋が一つしかないのが残念だ」

「自分なんてまだまだ。もっと精進してみせますよ。その時はこちらからご招待します」

「ありがとう。けどなあ、私ももうじき死にますからな」

「やめて下さい、元気にしか見えませんよ」

「その台詞、副支配人の上原君にも言われました」

「そういえば、あいつはどこ行ったんだ、お客様がお帰りだっていうのに。多々良さん、いつまで怪我人のふりしてんですか。上原はどこ行ったんです?」

「え? 彼は……」

「いや、いいんだ、いいんだ。彼とは、もう十分話すことができたから。お嬢さん、すいませんがお会計を。……それでは支配人、料理長もお元気で。さようなら」

老紳士は、静かにリストランテをあとにした。

 

「次に来る時はもっといいものを出さなきゃな。安西、戻るぞ。間がひいひい言ってるはずだ」

「はい」

「斎藤さんって、調理場の若手にはお優しいですね。私たちフロアの人間にも、少しは分けてくれてもいいんじゃありません」

「唐さん、俺はこいつも含めあいつらに優しくしているつもりなんて毛頭ないよ。本音で付き合っているだけだ、こいつらがそうだからね」

「私たちが嘘つきとでも?」

「そうじゃない。唐さん、おたくは勘違いしてるよ。俺は少なくとも、おたくがプライベートな感情や道徳観を発揮してものを話している姿は、好ましいと思ってる。いくらプライベートと言ったって、人間、二十年三十年も生きてれば、社会の良識、あるべき形への希求といったパブリックな観点に立つ自分が育たざるを得ない。プライベートな感覚で振る舞っている中には、実はパブリックなものも含まれていると思うんだ。俺たちは所詮庶民なんだから、プライベートとパブリックのバランスなんてそれで十分と思うくらいだ。

それなのに、社会や組織の側の空気を読んで、あるいは察して、公の要請を代弁するような行為はむしろ公が過剰に映るから、目障りだし耳障りだ。人には色々いるから、俺が言うようにプライベートにパブリックが潜んでいるなんて連中は所詮少数派かもしれないけど、唐さん、俺がおたくを嫌っているように見える時ってのは、今話した後者のケースにおたくが寄っている時のはずだよ」

「だからって、あからさまに態度が変わるのはどうなんです。誰もがあなたと同じ考えを持っているわけじゃないんですよ」

「さっきの老紳士は俺に近い人だと感じるけど。それに、おたくを好ましいと感じる時もあるって言ったはずだ。そっちを強調してもらいたいな。今のは理由を話したまで。どのみち、おたくにとって俺は面倒な奴でしかないことくらいわきまえてる」

「私がオーナーの女だからですよね」

「自分から言い出すなんて、自信がなくなってきるんじゃないか、あれの女であることに」

「何ですって」

「ちょっと君たち、立ち話はその辺でやめて仕事に戻りたまえよ」

「そうですよ。そろそろ厨房の間が、ぜえぜえ言い出す頃です」

「まともぶっちゃって。多々良さん、今夜はいつになくトラブル対処に積極的でしたね。どうしたんです」

「どうしたって、そりゃあ……。上原君、もう少し時間かかるかなあ」

「そうだった。あいつ、今外に出てるんですか」

「話をそらさないで下さい」

リストランテに平穏が戻り、あの客は完全に忘れられていた。会計のスタッフ一人を除いては。

 

◇◇◇◇◇

閉店の時間が迫ってきていたが、上原はまだ戻らない。

「本当にどうしたんです、あの人は」

「さっき、今夜はもう戻れないって電話が来たよ」

「だからどうして……はい、ただいま。今夜の仕事はこれで最後かしら」

f:id:eichi_katayama:20201110225513j:plain

多々良がちらちら時計を気にする。厨房では片付けが始まった。

「今日はいつになく勉強になった一日だったがします、ふふふ。安西さんはどうでした」

「考える余裕もなく時間が過ぎてったよ。帰ったらやっておかないと。振り返るってのは厄介なトレーニングだ」

「私、それをやって朝になっていたことが何度もあります」

「マジで? お前はやっぱり、俺と違ってカルド(熱い)だよ」

「料理長の指導が、どうもこのところ熱心な気がして嬉しいんです」

「俺にはほどほどにしてもらいたいね。なあ間、これから俺の家に来ない?」

「はい? 頭が酸欠にでもなったんですか」

「違うぞ、復習も二人でやったら効果的かな、と。何だよその目は」

「私、そういう女じゃありませんから」

「だから違うってよ」

そこへ玲子が現れる。

「楽しそうじゃない、お二人さん。雑用でも喜べるなんて私にはない道徳観ね」

「玲子さん、聞いて。さっき安西さんがぁ」

「馬鹿よせよ」

「真実、終わったらとっとと帰りましょ。飲みたいの、一杯付き合ってよ」

「やった。玲子さんの奢りですよね」

「じゃあ俺も」

「あんたは来なくていいのよ。来るんなら離れた席に座りなさい」

「はい……」

こうして馬鹿話をしているだけでも玲子には気晴らしになる。けれど、真実がナイフをしまい終えた時だ。別のスタッフが顔を出し、こう言った。

「オーナーがお見えだ。話があるから来てくれってよ」

玲子の気がまた曇ってくる。オーナーが来るなど自分は聞いていない、この店に来る時は必ず事前に連絡を入れてきていた。それを多々良に妬まれたほどだ。

 

続く