1話<2話<3話<4話<5話<6話<7話<8話<9話<<『憲法を二つ立てる』10話>>11話(終)
二つの憲法の優劣について論考を深めよう。
法解釈の基準は結局、この国の法の支配の実績をどう捉えるかにかかっている。
現憲法の前文の通り、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」の意図をこれまで国家が誠実に履行してきたならば、この国の法の支配とは自ずと明らかであり、それはやはり国民に優しい作用のはずだ。
我が国家が法の支配を大切にするのなら、憲法を二つにしても躊躇なく踏襲されるものはある。
国家の程度や民度とは変化に直面したときに試される。なし崩し的に流れていくのか、流されながらも変わらぬものを握り続けるのか、選択を見てみたいものだ。
繰り返しだが、実際の優劣は個別個別に判断される。政体と国民それぞれ盛り込んだ条文とその趣旨を照らし合わせ、極めて具体的な事例が挙がった場合に真価が試される。
結局、国民有利であるのなら二つの憲法なんぞ要らぬではないか、と考えるのは拙速だ。具体的な条文はのちに論ずるが、政体のための憲法は内政よりむしろ他国と競う外交面でのポリシーとして機能し、内政への干渉は国民の憲法がその役割を果たす、これにより両憲法は住み分けされる。
以上の作用は一つの憲法でも達成され得るのは確かで、現憲法も同様な性格を有してはいる。それでも二つに分ける以外では不可能な所業がある。
それは現憲法をそのまま維持しつつ、もう一つの憲法を新たに創ることだ。これなら護憲派と改憲派の希望をいずれも満足させられる上、憲法の志と働きを進歩させられる。
どういうことかいうと、例えば「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」をうたった第九条は政体の義務として維持しながら、別途立てる国民の憲法の中で「国民は国に対し時勢に対応した自衛力の強化を求めることができる」などと規定する。
こうすることで現実的な国防を忌憚なく議論して構築できる法体系上の拠り所が整う。
これは現憲法に条文を追記するいわゆる「加憲」とは異なるし、また加憲では到達不可能な法制定の境地になる。
加憲では所詮、今ある条文の枠内で現状既にそう運用されてはいるが、明文化までされていない部分を改めて明文化する程度の成果しか残せない。自衛隊の明記は典型だ。
加憲論者の間には、既存の条文と対立構造になる条文まで盛り込もうとする気配はない。そんなことをすれば、積み重ねてきた法の支配が崩れると彼らは信じているからだ。
しかし、その発想こそ法解釈への根深い侮辱だといっていい。
この国の法の支配の実績を本当に尊重していれば、新たな条文として先ほど述べたような文言が加わったとしても、法解釈上、無軌道な武力拡大は解釈として否定される。この国が過去70年以上にわたり平和主義を心底貫徹し、その蓄積が十分なものであるのなら、極論は当然否定され、現実的な武装の在り方が極めて落ち着いて議論されるだろう。
この可能性をみくびっている、あるいはそもそも念頭に置いてない時点で加憲論者は国家を信頼していないのである。それは政体としての国家だけでなく、国民も含め信頼していないということだ。
その心根を知ればこそ、明確に二つの憲法を立てると宣言する動機が生まれる。
両者の対立構造をあえて創出し、法解釈の合戦を前面に打ち出す機会を設けることで、法の支配の実績を浮き彫りにする。
対立によって、かえって国家の継続性とは何かを認識できるだろう。