lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法を二つ立てる(9)~実は護憲派にこそ潜んでいる「法」や「知性」の軽視

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国内の護憲派にしろ改憲派にしろ、憲法の明文化ありきで議論を進めるのは現憲法が明文であるからで、現状追認の延長に過ぎない。

 

しかも実は、憲法は常に明文でもあるのだ。

 

ある事件の裁定を巡り最高審で争った結果、そこには必ず法解釈を決定する判例が生まれる。この判例は常に明文であり、国が歴史を重ねれば重ねるほど判例も積み上がる。蓄積した判例の趣旨を読み解き、関連を整理することであたかも明文の法体系が紡がれた形になる。いわゆる憲法として明文化・制定された法律がなくとも、判例がある以上憲法は常に明文であるともいえるのだ。


判例の積み重ねを正反対に覆す憲法をつくることは、まさに革命に相当する。

 

このため、そこまでの改憲は認められないとする考え(硬性憲法)が起こり得る。生半可な護憲派はここが分かっていない。

 

改憲によって現憲法の精神が失われると本気で考え信じ込み、その態度が実は法の支配と国民の知性を軽んじているとは露にも思っていない。

 

哀れ、あがこうとあがくまいと我々はもう既に現憲法の奴隷なのだ。

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LeoNeoBoyによるPixabayからの画像

戦争に負け歴史の継続性を寸断された国家とはこういうものだと肝に銘じなければならない。

 

寸断された期間が5年、10年ならまだしも70年以上である。もはや70年前に引き返そうなどという胆力のある輩は見当たらず、革命覚悟で憲法を改正しようとも、付いてくる人々は大袋のスナック菓子の中身くらい少ないだろう。

 

この悲哀に満ちた現実に刃向かう試みが、二つの憲法ともいえる。

 

市民感情を肯定し低きに流れがちな国民と、横暴の恐れがある政体それぞれに別個だが連関のある規範や理念を設定し、国民と政体双方に高みを目指してもらう。

 

高みを目指す、とはやや壮大だ。国民はただ守られる立場ではなく自ら守る存在、一方、政体は国際社会と戦う宿命があるということを大ぴっらにタブーなく認識する常識を体得したいだけである。

 

このことは、現憲法との連続性を保持しつつ、さらに現憲法以前に遡った歴史の継続性を取り戻す仕掛けにもなる微々たる可能性であるのは強調したい。


一見すると、国民と政体を対立させるこの構造。何より一国が二つの憲法を持つことが可能なのかとの疑問には、不可能とする理由はないと答えておく。

 

歴史ある法治国家であれば、ほぼ必ず判例があり、条文で整理された憲法があろうがなかろうが、判例が実質的な憲法の機能を有している。

 

問題は、国家に内在する憲法をどう顕在化させるかであって、一つにまとめるのではなく二つに分離して公布してもいっこうに構わないのである。


しかし、憲法が二つあるとなると、その優劣は見過ごせない関心事になる。国家の基軸となる憲法を創って国家が崩壊しては目も当てられない。

 

前述したように、その場の支配権を決めるのが結局のところパワーであるなら、政体と国民を衝突させ、強かった者が上位ということになるが、この場合の強さとは何か。

 

国民がいつも上だとか、またはその逆だとかの結論では、せっかく対立構造をこしらえた意味がなくなってしまう。結局はケースバイケースとなるだろう。そうしなければ、互いが互いの抑止力にならないからだ。

Cartoon stick drawing conceptual illustration of two politicians or businessmen demonstrating missiles or rockets. Concept of military force deterrence .

 

政体のほうが実力行使を伴う危険が高いとみれば国民に有利な司法判断となるだろうし、国民の権利濫用が甚だしいとみれば国民の主張は退かれるだろう。具体的な対立ケースで個別の法解釈が導かれる。


こうした物言いは、反権力こそデモクラシーのあるべき姿だ、と胸に刻んでいる人たちには耐えられないはずだ

 

そう唱えていれば政治姿勢として十分だった時期があったのは確かである。私自身そうであった。

 

けれどもそれこそは、歴史の分断に紛れあたかも花咲いたように見えた徒花である。

 

国家が歴史を創り続ける限り、人々はナショナルな感性からは逃れられず、だからこそ、国民は国のあるべき姿を求め、国の悪さを糾弾する。このことには確かに大義がある。またあるいは、思い通りにならない実生活への不満を八つ当たりでぶつけていただけかもしれない。

 

そうした分類は本来慎重に実行されるべきだったが、残念ながら真剣になされてこなかった。

 

目的が異なっても行為が同じであればお仲間で、それで良いとする時代があったのだ。

 

その調子のまま、再び現代に戦いを挑もうとする闘士らは当然だが失望する。社会は変わってしまった、間違った方向へ進んでいると嘆き、自分が闘士だった時代を若者に語り、目を覚ませと涙を浮かべる。

 

まさにノスタルジーである。

 

ノスタルジー屋の諸君にいいたい。

 

安心してほしい、何も情緒に訴えなくてもよい、あなた方の目には、国民連中の間から反権力の闘争心がなくなったように映るかもしれないが、それは中身が変わってきたのだと。

 

かつてと違い、国を敵視するだけでは生活の向上が望めない事実を悟り、国の実行力を期待する。そこにしか期待をかけられない手札の少なさを今の人たちは暗々裏に思い知らされている。

 

ましてブラック企業なる言葉が流行ったように、現代社会は国以上に民間企業のあくどさのほうがリアリティーを強めてきた。

 

国はまがいなりにもメディアの糾弾にさらされ、愚かな国会議員は選挙で落とされたり、選挙の前に議員辞職したりする罰を受けるが、多くの民間企業にそれはない。

 

よほど世間を騒がす事件を起こしたのなら別だが、大抵は明るみにならないからこそのブラック企業である。

 

そんな生活のリアリティーに比べたら、国の不祥事などいかほどのものか。

 

昔は市井の輩に声を上げる機会はなく、はけ口をメディアを介した国の批判に求めるしかなかったが、現代はSNSが発達し、匿名にせよ、個人にも攻撃のチャンスがある。ならばなおのこと、国批判の関心は国民からそがれていく。


単に変わってしまったと嘆くだけで、どう変わったのか、どこに原因があるのかを真面目に考えもしないから、ノスタルジー屋、と悪口もいいたくなるのだ。

 

目的に思いが至らず、表面的な行為だけで物事を判断するのは今も昔も変わらない彼らの悪癖である。

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