1話<2話<3話<<『憲法を二つ立てる』4話>>5話>6話>7話>8話>9話>10話>11話(終)
国家(つまり政体)は国際社会との外交なしには語れない。
内政は自国民を説得するか、弾圧するかすればどうにかなるが、外交はそうはないかない。
デモクラシーの政治体制では、互いに国民世論を背負いつつ、相手国から旨味を引き出そうと押し合いへし合いを繰り返しバランスを計る。
世界中に国家が樹立し政体が胎動を続ける限り、バランス・オブ・パワー・ゲームのプレイヤーからは逃れられない。
そのゲームに負ければ国が亡くなる危険もあり得る。
それに引き換え国民は、何人からも国民であることを侵されない。
機会と結果の不平等や生活水準の良し悪しなどの差異はあるが、国民の立場は不変だ。
不穏当な発言で世間に非国民と罵られようとも、単なる誹謗中傷に過ぎない。
強権的な国家が特定の人物を迫害する局面も考えられるが、その際は国民の資格を剥奪するなんて回りくどい手段は取らず、殺害を選ぶ。
国民は、自ら率先し国民であるのを辞めようとは思わない。
国家に抗議するため国民の地位まで捨てるタイプはいないわけではないが稀だ。
そして、たとえ亡命、難民、帰化などの理由で生まれた国の国籍を外れても、別の国籍を取得し新たな国民に生まれ変わる。
国民が国民である事実は変わらない。
テロリストとその妻、子どもたちなどの扱いを巡っては議論があり、ISのように自ら国を名乗る組織に一度参加した人々は、母国に戻る選択を許されず実質的無国籍の立場に置かれる。
特殊な事例に留意は必要なものの、この場で議論したい国民とは、「ある」国民でいるのは辞められても、国民の属性はそのままであり続ける保護された人々のことだ。
政体は常に戦いを求められ、国民はゆけどもゆけども保護の道を見つける。
生存の切迫性と生き残るための道理が政体レベルと国民レベルでは異なるのだ。
道理の異なる両者を同じ法で扱うのは無理があり、政体は政体に合った、国民は国民に適した憲法を想定せざるを得ない。
せざるを得ない、と断言すると「国民の総体が国家だ、国家を国民と政体に分けるのは文明への暴挙じゃないのか」、そんな反感も少なからず出てくるだろう。
ただこれこそ、国民主権が万能の権利と勘違いしてきた文明人の知恵の足りなさであり、この程度は古代ギリシアから、特に衆愚政治の研究で指摘され続けてきた。
残念なのは歴史上の先人たちの知恵が21世紀になっても定着していない現状のほうである。
この辺が科学系の知識と人文学の知識の決定的違いだ。