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国民の意識に関する日本での最近の例を考えてみよう。
未曽有の自然災害が起き、人命や家屋に多大な被害が出たとする。
人々は国に助けを求め、そうした光景をメディアは情感たっぷりで伝え、少しでも助けが遅ければ奇声を吐き、支援が足りなければ不平を宣伝する。
そうして国の保護を煽りながら、世論調査で政治不信があるかを問われたら、ある、と臆せず答えるのが今の日本国民の意識の平均値、または決まり文句なのだ。
国民は国に感謝せよと言うのではない。
人間の日々の生活はさまざまな物事との相互作用で成り立っている。
作用が複数であれば、あちらを立てれば、こちらが立たず、の状況は常に身の回りに起こり、そこに直面した人間の振る舞いは矛盾や葛藤を暗に含んだ、きらびやかになろうはずがない鈍い光を必然的にまとう。
話題にもよるだろうが、試験でもない限り、イエス、ノーで単純に答えられる場面はそうそうありはしない。
政治の世界ではいつまでも議論を続けるわけにはいかず、デモクラシーの多数決によって決断をしなければならないが、それは必要性があるからそうなるのであって、イエス、ノーの明確さを頭脳の明晰さや判断の正確さと混同してはいけない。
国民に厳しめなのは「国民が主権者であるのなら、主権の執行に相応しい高度な責任が課せられるはずだ」と解釈しているからでもある。
この責任とは、国に服することではなく、自分で自分を律する努力に近い。
この自分を律する態度は日本人の場合、国際問題や外交のプロセスで目を覆いたくなるほど凄まじい存在感を発揮するのであるが、その話はのちの章に譲り、ここでは、どれだけ責任に無自覚でも絶対不可侵であり続ける国民の圧倒的強靭さだけ頭にとどめておけばよい。
日本人の場合は、あの敗戦と精神的な戦後処理に失敗した不手際があり、現状の世界観からの脱却は相当難しかろう。
個人的にはもう不可能とも思うが、可能だと仮定するなら、そのためには今の姿を疑ってみるしかない。