lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

「戦争の放棄」と「戦争行為の放棄」(6)~際どい言葉の積み重ねしかない

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 普段戦争に触れる機会のない国民は、戦争を特別な異常事態として捉えがちだ。

 

実生活での異常と外交での異常を混同すると、認識は一層後れをとる。

 

家庭生活の教訓を頼りに外交を考察することはできても、外交の野蛮さを家庭生活のたとえ話に落とし込もうとするのは危険であろう。

国際社会のあまりの権謀術数ぶりに、あなたの正義はどうしようもなく頑なになり、結局、外交を理解できなくなってしまう。

 

外交における戦争行為とは、庶民感覚にのっとって避けるべき異常事態ではなく、より深刻な異常事態を背後に感じ、そこを抑制するために行う必要悪である。

 

心の平和に毒されている日本人には、これが容易に受け入れられない。

 

受け入れられる日本人がいても、メディアのスポットライトが当たらず、公の言論空間では少数派扱いされ、議論の蓄積が始まらない。

たまに少数派から稀代の評論家が生まれても、メディアには使い勝手のいい特異な存在として重宝されるだけで、その人(人たち)の意見をきっかけに社運を懸け、公の言論を逞しくしてやろうという仕掛けは皆無であろう。新聞だったら、ジャーナリスト個人の見識で単発の特集記事を組むのが関の山である。

 

それでもないよりはましなのだろう。

こうして人々は、亀よりものろい速度でいつ到達するとも知れない認識の高みへと歩み続ける。

 


こののろまをどうにかして俊敏にできないかと、知識人の先人たちは考えに考えた。

 

いろいろな希望や可能性を模索しては挫折し、挫折しては別の発見に至るという道のりを経て、最後にはやはり挫折していった。

 

頭のいい彼らは永劫回帰の予感を抱えながら、それでも挑戦する気持ちに抗えなかった。答えのない問題に取り組むのは、それだけ楽しいことなのだ。

 

そして、どうやっても答えが出ないことを髪の毛一本・胃液一滴まで思い知り、絶望を友にして死んでいく。

 

自ら死を選べるかどうかが、真の知識人と愚民を選別する規準かもしれない。

そう考えればこそ死者の「民主主義」は輝く。

 

生者の「民主主義」は実現不可能である。

生者には「民衆政治」しか実施し得ない。⇒(関連記事

死者は、自ら死を選ぶことで過去に残した言葉に血を通わせ、単なる口達者でなかったのを証明する。これにより死者の発言は生者とは一線を画す知恵となり、重きを置かれる権利性を帯びる。

 

「民主主義」は死者にこそ与えられる特権なのだ。

 

けれど、多くの平均的な生者たちはその道理を了解できず、今日明日の命をありがたがっている。

死んだらお終い、生きてるだけで丸儲け……。

こうした生命礼賛の決まり文句を無批判に使い続ける人間には、命を絶つほどの苦しさが分からない。

 

苦悩のない脳みそから卓越した思考が生まれるだろうか。

 

こう言うと生命礼賛の方々からは、「私たちも悩んでないわけではない、悩んだ末に生きる選択をしたのだ」、とお叱りも受けそうだ。

だがそれならせめて、生きろとか死ぬなとか単純に発言しないでもらいたいではないか。

この場合には生きろ、ああした場合には死んでもいいなどと表現を工夫してもらいたい。

 

際どい言葉の積み重ねが認識力を高める始まりになる。その機会を自ら遠ざけるのは愚行と言っていい。

 

世の中の生命の不幸に配慮しだしたらきりがなく、言論は口を閉じるしかなくなる。感情を察知して言葉遣いを調整することはあっても、関連語をすべて排除してしまっては新たな認識に慣れることができない。

 

 

恐らく、生命礼賛の方々に死者の民主主義という発想は出てこないだろう。

その手の言葉を使った書籍が書店に並んでいても、手に取る機会にすら恵まれない。

 

死者の高みを知らない者は今の歩みの遅さも知らず、そのため、絶望からも自由でいられ、発展性のない言論を繰り返す。

 

同じ永劫回帰でも真の知識人と愚民ではループの次元がまったく違う。

真の知識人は地球を何周も回るが、愚民は子どものように校庭のトラックを周回しているに過ぎない。

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