lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法を二つ立てる(6)~愛着で片付けられない有害なノスタルジー

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政体と国民で別々の憲法を立てる。

 

この企ては実は双方にたゆまざる緊張感をもたらす。

 

憲法を二つ設えることで、政体は国民を意識し、国民は政体を乗り越える使命を背負うよう仕向ける法体制の可能性が芽生える。

 

憲法を国家の義務と責任を示したものとみなすなら、国民の義務と責任を要求する憲法を別に創り、両者を対立させ、格好良くいえば、相互の切磋琢磨を促すことで、内外の国力を高める。

 

この国に不足するものの一つは、社会の緊張感である。

 

ここで指摘したい社会の緊張とは、せちがらい相互不信に満ちた世の中を指すのではなく、明日は今日より悪くなるかもしれない、その平凡な(だが非凡な)現実感を忘れない程度の緊張を意味する。

 

二つの憲法は、少なからず緊張の維持に役立つのではないかと思っている。

 

かなり薄い期待なのは否めないが、可能性を閉ざさないのが知性への敬意だとみればこそ、一本の針の穴をほじってみたくもなるのだ。


憲法を二つ立てるのにこだわるのは、この国の護憲・改憲論議への不満が関係しているのはお察しの通り、隠すまでもない。

 

護憲派にしろ改憲派にしろ、憲法を持つことが当たり前と捉えられている昨今、憲法は国家にとって本当に必然的なものか。

 

私の考えはである。

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長い歴史を持つ国家であれば、その過程で培った範例、伝統、良識から十分国家を運営し得る。わざわざ憲法なる最高法規をこしらえる必要はない。

 

仮に憲法をつくるにしても、歴史の中で生き抜いた範例、伝統、良識たちを不文の規範として活用すればよく、それが憲法には明文のもの以外に不文のものがある所以だ。

 

それでも、あえて憲法の明文化を選ぶなら、そうするだけの理由が要る。

 

不文の良識だけでは不十分なほど社会の価値観が急激に変化し、それらを明文化する必要がある場合や、人種の増加で不文の意識だけでは文化の共有性が保てなくなったり、不安定な世情を理想に近付けるため、新たな理念で国家を設計したりする事態への直面などが想像されるだろう。

 

その国で、ある憲法が生まれるには、それぞれの事情があるのを忘れてはいけない。

 

憲法の制定が国の目的ではなく、国の運営のために憲法を制定するのであり、憲法を守るために国があるのではなく、国を守るために憲法を要するのだ。

 

この抑えどころを見失うと、思考はファナティックに硬直し、無慈悲な世界の渦の中で窒息死を迎える。

 

どんなに現憲法に愛着があったとしても、「じゃあ好きにすればいい」と容赦なく秩序に挑戦を仕掛けてくるのが国際社会の獰猛さであり、「昨日のルールへの信頼など単なるノスタルジー」と一蹴されかねない。

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