lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法を二つ立てる(3)~無知を逆手にとる民衆

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ほとんどの日本人は国家、国民の言葉を無自覚に使い分けている。


単純な例を挙げると、何らかの規制を与える、創出する側が国家とされ、国民は規制を受ける側に当たるという認識がそうだ。


いわば、狭義の主従関係ともとれる関係性を思い浮かべる人は少なくないだろう。


これは不思議な話だと気付くべきだ。


ある時は高らかに国民主権をうたい、いかなる権力にも侵害されない強者のメンタリティーを誇示しておきながら、状況次第で簡単に弱い立場の従者の心理に堕ちてしまう。


理想と実質は異なることを思えば、理想意識としての国民主権と、そうは言っても実害を無視しえない意味での被害者意識との住み分けは理解できるものの、ややもすれば整合性を問われかねない二元的立場を行使する際に、その行使者の態度の中に謙虚さは皆無に近いといっていい。


ときには強い権利者として、別のタイミングには弱い被害者を装って振る舞う、その精神性は民衆が民衆ゆえに常に抱える習性に相当する。


民衆ゆえにとは、政治家や専門家と対比した形での人々を「民衆」と定義した場合、政治家より国家の情報に遠く、専門家より学術知識からも疎い存在が民衆であるので、民衆は相対的に無知な集団とみなされる因果関係のためである。


無知は本来、人間の弱点だが、民衆は無知の実態を逆手にとり、素人感覚をむしろ武器にし、「分かりやすさを求める」形で政治家や専門家に自らの正しさを居丈高に要求するだろう。


どれだけ努力しても賢くなれない未来を悟った先に、愚かになることで勝利を手にする道を民衆は発見した。


民衆は無知ゆえに、支配者に対し最大級の要求を行える権利を手に入れた。

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こうして地球上に散らばる民衆を国境の点線で区切ったものが国民となる。


気が付いた方がおられるやもしれない。


ある人間が国家であれ、国民であれ、そのいずれかまたは両方の言葉を文脈に紛れ込ませる際はほぼ、本人は責任を果たす者でなく、庇護を受ける者の存在感を発揮させているはずだ。


常に「国家は責任を果たせ」「国民に優しくしろ」であり、国民の義務が論じられるのは納税の場面くらいだ。


迂闊にも「国民は国家に責任を果たせ」と言えば、悪しきナショナリズムの標榜者のレッテルが張られ、特にテレビ、新聞では言論の機会を奪われる。


やみくもに国民の義務を主張するのは確かに軽率といえる。


いたる所で民衆の責任放棄が見られ、思わず叱責したくなったとしても、長きにわたり善玉の「国民主権」が刷り込まれた脳細胞の働きを転じさせるのは容易ではなく、徒労感から世間を拒絶したくもなるだろうからだ。


さらに「愛国心」なる言葉を使えば最悪に拍車がかかるのは確実で、その発信者は文明社会での存在すら否定されかねない。


戦後の日本の実相はかなり大袈裟にいえば、こうなのである。


いや、今ではそれも過去の一説に過ぎない。


20年前なら確実に通用した反愛国心のテキストも色味を失い、人々は新たな愛国的な感覚を必要としている。


政府は悪いものだと猜疑心を向ければとりあえず言論が成立する時代は終わった。


その兆しをそれぞれの範囲で感じているのではないか。


それを認めたくない勢力はいつまでの過去のテキストを絶対不変と妄信し、疑問を持つ者は新たな感覚を具体的に言葉にできないからもどかしく、それなのにテレビや新聞を観てもステレオタイプ政治学が垂れ流されるから聞くに堪えず、他方、ネットの情報は体系に欠けるから摂取しても賢くなった気がしない。


しかし、まさにそこに国家を政体と国民に分け、憲法を語ってみる意義が宿る。

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