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確かかなと思った言葉を気ままに。

「戦争の放棄」と「戦争行為の放棄」(7)終~全体主義の継承者・日本人

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Stefan KellerによるPixabayからの画像

「生命礼賛」と「戦争の放棄」は地下茎でがっしり結び付いた価値観だと思う。

 

戦争にまつわるあらゆる状態を放棄する「戦争の放棄」とは、いわば無力さの肯定といえる。どんなに無力でも、現実に生きてさえいれば存在を尊重されるという立場だ。

 

尊重される努力なしに他人から尊重される好都合は普通起きない。自由・平等・平和を唱え、それなりに政策へ口を挟んでいれば条件を満たすというのだろうか。

 

一般の自殺志願者であれば、哀れみから社会の支援を受けられるかもしれない。しかし、「戦争の放棄」を妄信する人たちは自殺志願者などではなく、どこまでも生きたい人たちだ。

不可思議なのは、「戦争の放棄」を貫徹した先に自らを死に追いやる事態が待っているのを彼らが自覚していない、または自覚しても無視している点である。

いわゆる平和呆けという症状だが、これでは平和に失礼であるから、彼らのことは単なる「呆け」と呼ぶべきだろう。

 

これだけ悪口を言われても、言われたら言われた分だけ強固になっていく人たちもいる。そうした類が今も多数派とは思いたくないが、似たような認識力欠如の構造はいまだ至るところで見られる。


この章では、憲法上の重要テーマ「戦争の放棄」を手掛かりに、人間の認識力の危うさを考察している。最後に改めて指摘しておきたいのは、この国の現憲法は当初から、英文と和文の二つがあったことである。


この国の憲法はあえてつくるまでもなく二つあった。しかも、二つ目の憲法は誰に強制されるでもなく日本人自らの手で産み落とした。私にはこの事実だけで、憲法最高法規と奉る気になれない。

立て付け上は最高法規でも、心情的には出来の悪い二番煎じ法だ。

 

当たり前の事実を当たり前に述べるのはときに難しく、えてして事実に似せた夢想が事実として世にはばかる。人間の所業が多かれ少なかれ虚構をはらんだものである以上、完全に夢想から離れる状態は生み出しにくいとしても、それならそんな夢想、いつまでも真面目に取り合う必要はないはずだ。
そう……。

憲法を奉じる多くの日本人こそ、実は憲法をなにがしろにしてきた。憲法は自由や平和を貪る根拠として機能させられ、その機能を失わないための手段が政府への一方的な糾弾であった。

 

国民は戦前も戦後も、自分たちの未開状態を省みようとしなかった。全体主義からの反動にかこつけて、政府批判こそ国民主権の要なのだと、しれっと正義感を働かせた。

 

確かに、政府にも未開の部分は多くあり非難を受けるべきときはある。だが、同時に進めておくべき自己批判はあまりに乏しかった。自己批判とは、国民自身による国民批判のことである。

 

国民は戦争の惨禍に驚愕したのを言い訳に自己批判の責任を放棄し、矛先を巧みに政府に向けて、自分たちは当然のように被保護の家屋に居ついた。批判は自己・他者の双方向の交錯が繰り返されることで、ほどよい緊張感を社会にもたらす。他者批判が行き過ぎれば傲慢になり、自己批判ばかりだと窒息する。

結局、一方向に流れるという意味での全体主義は戦後も見事に継承されたのだ。反省、反省と言いながら、率先して継承者の道を選んだ。

 

日本人の民度とは、この程度なのである。 

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Paul BrennanによるPixabayからの画像

憲法をどうこうするなど、今の世代からすれば、もう今さらの問題なのかもしれない。

 

そのように本当に達観してくれているのであれば、個人的には大いに結構である。

一つの憲法が永遠であるはずがない。その感覚が皮膚感覚でびたっと体得され、個人の思考が憲法の思念を凌駕しているなら、面倒な憲法改正などに手を付けなくてもよいのだ。

 

憲法改正を簡単に済ませたいなら和文を英文に戻せばよい。日本人の英語力に難があるのはあの時代から既にそうだった、と大っぴらに自虐できるようになれば、本物に近付いてきたと認めたい。


いまいちな認識力に基づき今の社会がつくられたとして、それを克服したかどうかの目安の一つは、過去を笑いものにできるかどうかにある。過去を否定するのではなく、受け入れつつも不覚だったなと自嘲気味にあざ笑い、かつ、笑いものにした以上こちらは笑われないよう努める。

専門家やメディアがああ言っているとか、こう言っているとかの範疇の外で、庶民たちが独自の平衡感覚で時代を評伝できるようになったら、文明人として一応進歩したといえそうだ。

そんな時代も、いつしか笑われるような永劫回帰であれば、未来にいささかの希望を覚えなくもない。


繰り返すが、憲法に英文と和文があったことがそもそもの笑いの種だ。

戦後の国の再出発が、いきなりダブルスタンダードで始まったのだ。そのことに登場人物が誰も気付けない物語は悲劇であり喜劇でもある。原作者の米国ですら思いもしない演出だったかもしれない。

こうして、我が日本国の演劇は他に類を見ない作風を築き、「日本人らしさ」として後世に引き継がれている。

 

「戦争行為の放棄」を「戦争の放棄」と読み違えた時代が長く続き、そんな時代を茶化した別の時代が起こり、その時代すら「不毛な論争をやっていたな」と振り返れる日がやってくるのは、一体いつだろうか。

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