【顰蹙を買う】意味=自分の言動が原因で、人からいやがられ軽蔑される。(Weblio辞書)
もし仮に、今の私(36歳)が75歳の高齢者だったら、10代、20代の若者にこう言いたい。
「若者よ。おおいに遊べ、飲め、歌え、踊れ、語れ、そして働け」
「私も若い頃はそうだった。人生を十分に楽しんだ。気に病むことはない、君たちも盛大に人生を楽しんでもらいたい」
「若者が働かなければ、この国の社会保障はどうなる。我々は君たちに養ってもらっているのだ」
「私が若い時にうつした風邪が原因で亡くなった老人だっているかもしれない。人を死に追いやるのはウイルスだけでもない。自分の行為が他人の生死にどう関わっているかなど、分かりはしない。因果関係を辿りに辿れば、生まれてこないのが正解だったということになってしまう」
「もし、5歳の子どもと75歳の老人が同じ川で溺れていたら、君ならどちらを助ける。どちらか一人しか救えないとしたら、どちらを選ぶ。私は、5歳の子どもであってほしいと願う。5歳の子どもにはまだ多くの可能性がある。笑ったり、怒ったり、泣いたり、学んだり・・・自分の物語を紡ぐページが多く残されている。しかし、75歳の老人にはそれがない。何より、この老人はここまでよく生きたのだ。次は5歳の子どもの番だ。助けられた5歳の子どもにも、大きくなったら同じ選択をしてもらいたい」
「若者の重症化リスクをメディアが強調しだしてきても、怯えてはならない。こうしている間にも、交通事故、自殺、殺人、別の病などで亡くなる人は数多い。生きている以上、死を伴わない生はない。どんなちっぽけ要因でも死ぬ人は死に、しかし、多くの人は生きている。一部の事例に振り回され、勇気と賢明さを失う姿は見たくない」
・・・今、自分が老人だったら「待ってました」とばかりに以上のようなことを言いたい。
70年超も生きて、この上「もっと生きたい」とすがる姿勢は見せたくない。
臆病者にはなりたくない。
共通の思いのご老人もきっと沢山いるはずだ。
「お前がいざ老人となったとき、同じ心境でいられるのか」と問われれば、「はい」と答える。
客観的な証明のしようはなく申し訳ないが「はい」と答え、実行する自信がある。
戦後、女手一つで親父を育てた祖母や、シベリア帰還兵の大叔父がそんな人だった。血縁の性格は似てくる。ひと一人の可能性なんぞ、その程度のものだ。
だから私は「はい」と答える。