lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法に対するそもそもの誤解(2)~解き放たれた凡庸、「人類普遍の原理」を信じてしまう日本人

1話 <憲法に対するそもそもの誤解』2話>3話>4話>5話>6話>7話>8話>9話>10話(終)

憲法前文の続き。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり……

 

皮肉と冗談交じりに言えば、人類普遍の原理が20世紀半ばに発見されていたとは驚きである。

 

皮肉と冗談交じりと言ったのは、ここで指摘したいのは国民主権の否定ではなく、なぜ、それこそ、多くの哲学者が解明に挑み挫折する「人類普遍の原理」なんて大言壮語が憲法に組み入れられ、今に生き続けているのかという疑問があるからだ。

 

当時の作成者たちにそうまでさせるほど、あの戦争のショックは大きかったと想像できもするが、現代を生きる私たちが顔を赤らめることなく、「人類普遍の原理」を許容しているのは不可思議でしかない。

 

国民主権他の主権よりまともではあっても、完全無欠ではない

ところどころで不備を露呈しつつも将来にわたって深刻な弊害も少ないと考えるから、国民主権にいささかの優位性は感じる。

国民主権の実態を正確に認識すればこんなところだろうが、「人類普遍の原理」という評価を疑問なく受け入れている方々は、そもそも「人類普遍の原理」への探求に興味がないから、「人類普遍の原理」を便利な使い文句としてしか見ていないのではないか。

探求に関心がある人でも、過去の経験を、それが壮絶であればあるほど無批判に真理にまで昇華させてしまう。

そして、ひとたび普遍の原理などという言い方をしてしまったものだから、批判はタブーにまでなってしまった。

 

憲法は、人間が言葉に操られる好事例を提供してくれている。

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さらに前文の続き。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

疑いない。

日本国民が崇高な理想を深く自覚している、とは紛れもない嘘話ではなかろうか。

あえて高い目標を掲げたのだとしても言い過ぎであって、もしそうなら、「日本国民に自覚を持ってもらうよう促す」、といった程度の表現こそ相応しくないか。

 

「恒久の平和」なる言葉遣いも耳障りが良いだけで、どんな形を描いているかは不確かだ。

 

日本人が平和と聞いて思い浮かべる世界はおそらくこんなだろう。

……世界中で武装が解除され、各国の国民は互いの隣国を憎むことなく、笑顔で手を取り合い、困っていたら助け合うのが当たり前。裏切って再び武器を構える気などさらさらない。互いが過去に犯した過ちは寛大に許し合い、未来志向で自由平等の政策を切磋琢磨し、隣国の政情を我がごとのように気に掛ける……。

要するに、すべての民心から敵意が消え去った平穏な世界。人によって細かな違いはあれど、これが、日本人が思う平均的な平和の理想像ではなかろうか。

そして、この理想像を胸に秘め戦後世界に向き合ってきた凡庸な日本人は、哀れにも痛い目にあってきた。

痛い目にあったことすら気付かずに。

 

日本人の凡庸さを解き放った責任、というより発端は、ときの政府にもある。

 

戦後、吉田茂政権は経済復興に注力するため西側諸国と講和し、安全保障は米国に従属して自前の軍備負担を避ける道を選んだ。

当時の事情を考えれば戦略的な判断にもみえるが、年月が経つにつれ、軍事力を持たずに繁栄を取り戻した平和国家などという幻想を庶民に根付かせる魔力を宿す。

馬鹿野郎、と一喝したくもなるではないか。

人間の予知能力は本当にたかが知れている。

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