lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【連載】「自衛権」と「自衛義務」(2)~JapがJap語で語る綺麗ごとはJapにしか通用しない

変化しなければ生きていけないのに、人が現状維持の選択を続けるのはなぜか。現状維持を諦めるまでに時間を要するのはどうしてか。

 

この謎を解くには、まず、人が物質的な喜びや満足だけで生きていない事実を認める必要がある。

 

そんなの当たり前とお思いだろうか。では、自分自身を振り返ってもらいたい。

 

・・・何より命が大事、生きているだけで丸儲け・・・。

こうしたシンプルなワンフレーズに心動き、勇気をもらった経験がありはしないだろうか。

 

これらのワンフレーズには二つの意味で救いの力がある。

何もかも失敗し、待っているのは死だけという人を死に急がせない効果と、やりたいことがうまくいかず人生の生き甲斐を見失っているときに肩の力を抜かせる作用の少なくとも二種類があるのだ。

前者は、命がこの世で最高位の価値であるからそれを維持しているだけでも素晴らしいと思わせるもので、後者は、理想や夢に囚われ過ぎずもっと気楽に生きる術に気付かせるものである。

 

いずれも生きることに重きを置いている点に変わりはなく、「命」という目に見える現象を重視する意味で、物質的な見方に偏った優先順位の付け方である。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

このように、はえてして命のありがたみに屈する。

 

そうしたほうが心地いいし、正解の場合があるのは事実だろう。

しかし、ある命を守るために別の命を犠牲にする、より多くの命のために少数の命を見捨てる――。こういった政治的判断は国際社会では容易に起こり得る。

この世で大切にすべき命の種類は一つでないのだ。

 

それなのに、一括りに「命」と表現してしまうことが思考の柔軟性や閃きを奪い、特に軍事面や外交上の政策検討で後れを取らせる結果をもたらしかねない。

 

世界は容易に混沌し、混沌の前で綺麗ごとは無力であり、平定のためには確固たる力が必要だ。

 

基本的に日本人が日本語で語る綺麗ごとは日本人にしか通用しない。

 

自由も平等も平和も、国によって捉え方は微妙に、ときに大いに異なる。このシンプルな事実を忘れると、結局は独りよがりの発想に縛られ、世界を見誤り、いつの間にか国家間の立場を失い、安全保障は脆弱になる。


典型的な平和主義者は、軍事力ではなく外交努力によって平和を築くべしと言うが馬鹿げた話だ。

では、その外交努力が失敗に終わった場合はどうなる。

人生において努力が必ずしも報われるものとは限らないのは誰もが理解しているところだろうに、外交努力に関しては努力すれば必ず成果が出ると、どうして信じられるのだろうか。

 

努力が失敗に終われば丸裸になるのは必然で、そのとき慌てて武力強化しようとしても、とき既に遅しなのは明白だ。

けれどもそれを分からない人が、分かろうとしない人は常にいる。

 

そうした人たちは、おそらく国の「自衛」が政府の義務ではなく国民の権利とでも思っているのだろう。

 

権利であれば行使も放棄も自由自在。

平和の気分に任せ、自衛の強化が戦争の発端だ、と勝手に結び付けて情を煽るのがお決まりのやり方だ。

 

日本のメディアではこうした類の言論が趨勢とまでは思わないが、相変わらず目につく。

変わらない者たちは永遠に変わらないものだ。この点において私ははっきり失望し、嫌気で胸が気持ち悪くもなる。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

私の見解では、自衛は義務であり権利ではない。

 

この前提が異なる人たちといくら議論を重ねても、話がかみ合わないのは当たり前だ。憲法自衛隊を明記するなら、誤解がないよう自衛は義務であることも同時に明確にすべきだろう。国家の防衛が刑法上の正当防衛と同一視されてはたまらない。

 

なぜ自衛が義務であるべきかといえば、その国はその国以外の人たちによっては守られないからである。

多少の助太刀や同情ならよその国からもあるだろうが、本気で命を張って守ってはくれない。

 

多勢に無勢だと思われればこそ支援を受けられるのであり、最初から守ってくれるのを期待し自分で戦う姿勢を見せない国に手を差し伸べるほど、世界は愚かではない。

もしそんなことが現実にあれば、そのときは必ず、敗戦並みに厄介な見返りを求められる。

 

日本人は何よりもまず脳内のお花畑を取り除かなければならないのだが、それは実に難しい。痛い目に遭わないと改められない人はいる。痛い目にあって、その瞬間は反省するがすぐ忘れる者もしかりだ。

 

こうした側面を私自身も多分に持ち合わせているのは否定できず、個人的体験談を語れば枚挙に暇がないだろう。

個人がそうなのだから、有象無象が集まる国が同じ過ちを犯すのは必然とも言えてしまう。ただ同時に、それでは駄目だと感じる自分がいるのも確かである。

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