1話<2話<3話<4話<『戦争の放棄と戦争行為の放棄』5話>6話>7話(終)
秩序の転換は、よほどの惨劇でもなければ今日明日を境に突然起こったりはしない。
じわじわと蛇の如く忍び寄り、ようやく目視できたときには既に領域への侵入を許している。
侵入までの過程の一つ一つが秩序転換の瞬間であるから、瞬間を見抜くチャンスは理論上はほぼ無限に連なっている。
じゃあ対策を講じるのは簡単かといえば、残念ながら、できる者とできない者に別れるのが世の常だ。
変化の見極めは、そもそも変化が起こり得るのを頭の片隅にでも置いておかなければ不可能である。
眼前のピンチをちょっとしたアクシデントとして見逃すのは、それが一回二回程度なら許容範囲と思えるが、五回十回と続けば愚か者と罵られて仕方ない。
この愚かさと言葉の認識力の欠如は密接に関わっていると思う。
事象の転換点を察するとは、周囲に漂う言葉の意味の変節を感じ取るのに似てる。
他人の真意は言葉の使い方、あるいは意図的に使わない言葉の種類によっても憶測できるし、事実上、憶測によってしか証拠発見以前に危機を察知するのは不可能だ。
秩序の変化は徐々にだが確実に起こる。一つの秩序が我が世の春を謳歌できる時間は限られる。
変化した秩序への対応は多大な労力を要し、先の見えない状況に民心の反発は必至だ。だから政府には日々の諜報と予測による忌憚ない戦略、民衆にはさりげない皮肉と予感による心体の準備運動が求められる。
政府と民衆が、それぞれの役割を怠り続けた先に待つのは、新秩序の前で無に帰った手持ちの株と、新秩序にほくそ笑む各国の背中だ。
言わんとすることがお分かりだろうか。
言葉の感覚の良し悪しや上等下等の差が、まさに、国力に直結する武装の出来不出来に等しいというのが私の主張である。
「戦争の放棄」なる不可解な用語の不可解さに無関心な頭脳で、国際情勢の極めて微細な揺らぎに意識が向くはずない。
言葉は力である。ペンは剣よりも強し、と言われるのも言葉の力が目に見える腕力以上に状況の支配に役立つ潜在能力を秘めているためだ。
しかもそれは今さら指摘するまでもなく、一度支配に成功したらかなりの長期間にわたり効果を持続する。
ようやく弊害を自覚してもなお、その弊害から脱却するのにまた時間を要するのだからたちが悪い。
そして、ここからがさらに非情なのだが、ただでさえ気の遠くなる脱却の過程と同時進行で、別の悲劇がしれっと深刻さを増していく。
「戦争の放棄」を例にすれば、やっとの思いでどうにか「戦争の放棄」から「戦争行為の放棄」へと頭を切り替える作業に着手したのに、肝心の「戦争行為」そのものの意味が様変わりしてしまう事態がそうだ。
今の時代、戦争が単なる重火器の衝突だけで収まらないのはご承知と思う。
貿易、宇宙、サイバー空間に至るまで広義の戦争状態は常態化している。
健全な競争と戦争の区別は、その争いでの勝った負けたが国の存亡に関わるかどうかで決まる。
もう少し細かく言うと、国の存亡に関わるとの判断が強まったときが戦争だ。
戦争行為の分類は怪しいものまで含めれば千差万別であり、時代によって分類の量も軽重も変わってくる。
この対応が素人にはきつい。
素人とは政府ではなく、国民のことである。
政府はまがいなりにも時代に付いていこうとするはずだが、国民が信じる時代は夢の中にある。
自分の子どもには現実を見ろと説教するのに、政治の在り方、こと外交においては夢を追うが正しいのだと疑わない。
あるいは実生活が世知辛いから、反動で政治には清らかさを求めるのだろうか。
昔は今以上の勢いで、政治が庶民の不満のはけ口になっていたとの推論はそう的外れではない。
今のようにネットが発達した社会では、庶民はそれを通じて自意識や社会批判を表明できるから政治にエネルギーを傾ける動機が弱くなる。
実生活には本来、政治より不満なものが満ち溢れ、それなのに不満を飲み込まなくてはいけない場面だらけである。
こっちで我慢した分、あっちでの攻撃が強まるといった自然現象が起きやすい実態に歯止めがない時代には、マスコミの政治批判のネタがスキャンダルであろうと何であろうと、お構いなしに市民の支持を集めた。
責める理由があればいいのだ。
そんな旧時代に活躍したジャーナリストには、スキャンダルが起きても政権が倒れない社会が違和感だらけで心地よくない。
かつての成功体験を忘れられない者たちは、ネタが受けない理由を説明するのに、右傾化とかポピュリズムだとかを持ち出し、原因を民衆の凋落に求めがちだ。
以前は支持してくれた民衆がそうではなくなったのだから気持ちは分からなくもないが、かつての成功体験こそ偶然の産物だったと見方を切り替えるべきだろう。
認識は改めるまでも難しいのに、せっかく改めた認識すらやや時代遅れと知った人はどんな反応を示すか。
大抵は、「そんなのおかしい」、と吠え、認識の齟齬をなかなか埋められず、またもや、ずるずる時間を消費する。
その齟齬もやがて解消されたら、また別の齟齬が進行中という具合に陥り、永劫回帰のループである。
内政はまだそれでもよいだろう。本当はよくはないが、問題が内政だけにとどまればそれは自己責任だ。
しかし、外交はそうはいかない。
外交面での認識の遅れは致命的だ。他国との交渉・競争での敗北は国の存亡に関わる。ゆえに外交とは、戦争行為と表裏一体の術策でもあるのだ。