lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

「戦争の放棄」と「戦争行為の放棄」(3)~悪質性すら感じる誤訳、その誤訳に誰も気付かない現実

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外国語を完璧に日本語へ翻訳するのは本来かなり困難な作業なのだろう。

近付けはしても一致はしない。

この点を忘れると国際交流は思いがけぬ悲劇を招く。

それが憲法の制定過程で起こった。

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MonikaPによるPixabayからの画像

衝撃的なのは、悲劇が起きたのが英語を日本語に訳する段階だけでなく、日本語を日本語で理解する際にもあったことだ。

 

これは救いようがない。

 

救いようがないのに、そうだと思うのに、それでもこの国は平常心で歩き続け、経済的には発展を続けてきたのだから衝撃は何倍にも増加する。


いかに言葉に鈍感でも全員が信じれば真実になるという証明だろうか。

 

日本人の本質的強みが認識の齟齬に頓着がない曖昧さだとしたら、日本人の前ではすべての言論が、その活動意欲を転換せざるを得ない。

 

彼らは物事を論理的に認識するのではなく、認識できたものを論理に祀るのだ。

 

その認識の是非はそのときそのときの運任せでしかない。

運よく人々に疑問を持たれず上手く場を通過できれば、その言葉は真実の称号を得る。

 

これは言葉巧みに相手を騙す手法とは明確に異なる。運よく言葉を通過させた者たちは自分の運の良さなど頭になく、自分の説得が論理性と誠実さをもって受け入れられたと信じている。

 

言葉が大事と教わりながら、最も大事なのは実は運でしたとなれば、我ながら絶望からも見放された気分になる推論ではないか。運を引き寄せたいなら、太古の占いや祈祷こそ人類が学ぶべき知恵になるのだから。


こうなってくるとさすがに見くびり過ぎかとも思う。

しかし、現憲法第九条二項を読むと迂闊な謙虚さは過ちだとはっとさせられる。


二項に当たる英文を直訳すればこうだ。

 

「陸軍(army)、海軍(navy)、空軍(air force)、または他の戦争行為の潜在能力(other war potential)は絶えず権威(ever be authorized)づけられない(no)だろう(will)。そして(and)、どんな交戦中の権利(rights of belligerency)も国家(the state)に授与(ever be conferred upon)されない(no)だろう(will)」


もうお分かりの方もいらっしゃるはずだ。

 

二項の英文はいわば将来への確認事項、努力義務のようなものなのだ。

陸海空軍やその他戦争行為に権威が与えられることはないようにしよう、交戦中だからとの理由で国に特別の権利が賦与されることはないようにしよう、そんな戒めを宣言しているに過ぎない。

 

それなのに、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とか「国の交戦権は、これを認めない」だとかの表現に様変わりした現憲法は明らかに誤訳の域を超えている。

同情の余地のなさは一項を遥かに凌ぎ、悪質性すら感じる。

 

英文中のwillを完全に無視して、「ない」と言い切ったことで文面上の解釈の幅は抹殺されたに等しい。

だから、「前項の目的を達するため、」などと意味ありげな一言をわざわざ付け加えねばならなかった。

 

先ほど、一項は言葉の鈍感さを思わせるとの趣旨の話をしたが、二項には平然と言葉を捻じ曲げる迫力が潜んでいるとも直感する。


人間の仕事に完璧はない。

意図的でないとしたら、時間がない中での和訳で、担当者の英語力が足りなかったのかもしれないし、とりあえず概要さえ分かればいい仮訳のつもりだったのかもしれない。

 

事情はどうあれ、結果的に一項では意味が通らない、二項では意味が変容した条文をこしらえ、国の最高法規の一員に加えた行為には呆れかえる。

 

その危機感があったから出た芦田修正だったとしても、それなら条文をしっかり作り直してほしかった。

当時に無理だったなら、のちの政治家と国民が速やかに問題意識を持ち、改正手続きを進めるべきだった。

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