lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

「戦争の放棄」と「戦争行為の放棄」(1)~そして、知性の退化は始まった

『戦争の放棄と戦争行為の放棄』1話>2話>3話>4話>5話>6話>7話(終)

Renunciation of War


上記は現憲法の第二章「戦争の放棄」の英文であり、GHQの草案に書かれている。現憲法はGHQ草案を英訳・修正したものであるから、英文のほうが原文といえよう。

 

戦争の放棄……不可解な言葉遣いではないか。

 

国と国との戦争が起こるには最低でも2カ国間の戦闘が必要だ。つまり、戦闘を先に放棄するということは相手国に屈服するということである。

 

戦争は国家間の異常状態の一種。「状態」は放棄したくても放棄できない。自身の病気の状態を自分の意思で放棄したくてもできないのと同じだ。

病気を放棄するとは、自然治癒に任せるか、または、病の進行を放置して悪化させるかの2択でしかなく、これが「戦争の放棄」の場合は、相手に降伏するか、もしくは、降伏せずともこちらからは一切手を出さないので一方的にやられ続けるか、いずれかの決断になる。

 

言葉を言葉通りに理解しようとしたらまさにこうなるのだ。ふざけた話だろう。

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この錯乱は、実はちょっとした英語力を駆使すれば簡単に解消される。

 

英語の「War」は名詞的意味の「戦争」のほか、動詞的意味の「戦う」を兼ねている。Warを単なる「戦争」でなく動詞的意味に重きを置いた「戦争行為」と解釈し、戦争の「状態の放棄」から「行為の放棄」へと意図を明確に転換できれば言葉の矛盾はすんなり溶解する。

 

「戦争行為」の放棄であったら、放棄するのはまだ起きていない戦争を率先して引き起こす「行為」なのであって、起きてしまった戦争で屈服することではなくなる。

 

自ら戦争を起こさないというのは、まあ常識的な対応だろう。国際社会の常識を確認したのが第二章「戦争の放棄」であるなら、異論はない。

 

「戦争の放棄」を「戦争行為の放棄」と読み替えて第二章第九条に向き合えば、自衛隊が合憲の組織であるのは明らかだ。自衛隊を要らないと考える一般人がよもや多数派ではないにせよ、第九条を無心で読んだら、自衛隊違憲に思えてきたとしても無理はない。

読み手の頭をおかしくするほど、元の文章がおかしいのだ。


いずれにせよ、現実の自衛隊は合憲であるのだから、「Renunciation of War」が「戦争の放棄」であるか「戦争行為の放棄」であるかに実質的な違いはない。

 

しかし、「戦争行為とは具体的に何であるか」、と問われたら国民の思いは百花繚乱に花開くのである。


衆議院における現憲法の制定過程で、GHQ草案・戦争放棄条項の修正を発案した芦田均は、その著書『新憲法解釈』において、

 

第九条の規定が戰爭と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、國際紛争の解決手段たる場合であつて、これを實際の場合に適用すれば、侵略戰爭といふことになる。従つて自衛のための戰爭と武力行使はこの條項によって放棄されたのではない。また侵略に対して制裁を加へる場合の戰爭もこの條文の適用以外である。これ等の場合には戰爭そのものが国際法の上から適法と認められてゐるのであつて、一九二八年の不戰條約や國際聯合憲章に於ても明白にこのことを規定してゐるのである

 

 と記している。


「戦争の放棄」という概念を無批判に受け入れている点に疑問はあるが、自衛のための武力行使は放棄されないと明言したのは傾聴に値する。

一部の良心派が騒いできた、自衛のための戦力保持は許されるのか、といった問題は当時から解決済みであった。

 

過去に解決済みの話題を時を経てアンデッドのように蘇らせるのが彼らの得意技であるとしても、人々の目を過去の経緯から巧みに逸らして持論を滔々と語るやり口は本当に大したものである。若気の至りであるならまだしも、こうした人種は50代、60代になっても変わらないのだからさらに頭が下がる。


良心派の人格批判はさておき、芦田修正にうなずけない部分は多々ある。

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実際の法運用で問題はないにしても、結論を導く論理の立て方で致命的な欠陥を露呈していると思えるのだ。

この致命的な欠陥が日本の至るところにはびこり、思考の貧弱化に寄与してきたとの仮説はもはや確信に近い。

欠陥とは、似非の論理を、これが論理なのだと思い込んでしまう独特の習性を指す。


まず戦争放棄条項の英文全文を明らかにしておきたい。

 

War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.

国会図書館のウェブサイトhttps://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076a_e/076a_etx.htmlからの引用)

 

これが現憲法の条文だとこうなる。

 

第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

 

憲法九条一項にある「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」の部分と、二項「前項の目的を達するための、」の計2カ所が英文にはなかった追加、いわゆる芦田修正とされる。

 

確かに英文上には該当する文言が見当たらないが、この追加にどんな意味があったのか。

芦田に言わせれば次のようである。

 

戦争放棄、軍備撤退を決意するに至った動機が専ら人類の和協並びに世界平和の念願に出發する趣旨を明かにせんとしたことである。第九條の規定する精神は、人類進歩の過程に於て明かに一新時期を制するものであって、吾等がこれを中外に宣言するに當り、日本国民が他の列強に魁けて、正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表面せんとする趣意に外ならぬのである。

(新憲法解釈)

 

 そしてだからこそ、

 

第九条の規定が戰爭と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、國際紛争の解決手段たる場合であつて……自衛のための戰爭と武力行使はこの條項によって放棄されたのではない……

(同)

 

となる。


言わんとすることはよく分かる。

 

仮に戦争の二度と起こらない世界が理想の平和だとしても、武力保持が世界秩序を保っている実態をみれば、いざというときの自衛戦力まで永久に放棄してしまったら、国の存亡を脅かしかねない。

 

憲法の威光を借りた行き過ぎた平和の妄言を退けるために、九条はあくまで、「熱意あることを的確に表面せんとする趣意に外ならぬ」とする文言を付け加えたともみえる。その危険を感じ取っただけでもぎりぎりセーフであったと思わなくもないが……。

 

憲法制定の過程を知ると、戦後日本の異常状態が容易に想像できるから面白い。

 

まともな行動を取っているようでまともではなく、まともでない意見にさらにまともでない反論をして、まともでないことへの自覚が終始ないまま事態が過ぎていっている。

時代の激動は、ときに知性の退化を肯定化してしまうようだ。

 

何を強調したいかといえば、現憲法は芦田修正のあるなしに関わらず、そもそも、なぜあのような文言になったか理解に苦しむのである。

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