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確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法に対するそもそもの誤解(7)~言論、それは生身のディープラーニング

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日本国憲法に併せ、大日本帝国憲法明治憲法まで目を通した人はどれだけいるだろう。

 

1889年2月11日に発布された明治憲法の内容は、第一章「天皇」、第二章「臣民権利義務」、第三章「帝国議会」、第四章「国務大臣及枢密機関」、第五章「司法」、第六章「会計」、第七章「補足」からなる計76条。

 

議会が関与できない天皇大権として文武官の任免、国防方針の決定、陸海軍の統帥、条約締結などを規定したほか、行政府の国務大臣は議会でなく天皇にだけ責任を負った。立法府帝国議会貴族院衆議院の二院制で、議会の同意がなければ予算案や法案は成立しなかった。ただ、予算案が不成立だった時は前年度の予算を政府は施行でき、天皇大権に関する予算の削減は政府の同意がなければ議会も行えなかった。また臣民と呼ばれた日本国民は法律の範囲内で所有権、言論、出版、集会、結社の各自由が認められた――。

というのが、まあ一般的な明治憲法の理解であろう。


一方、現憲法は、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」、第三章「国民の権利及び義務」、第四章「国会」、第五章「内閣」、第六章「司法」、第七章「財政」、第八章「地方自治」、第九章「改正」、第十章「最高法規」、第十一章「補足」の計103条に上る。

 

憲法における天皇は政治的権力を持たない国民統合の象徴であり、明治憲法にはなかった主権在民、平和主義、基本的人権の尊重が定められ、戦争の放棄を明言した点などが画期的とされる。


憲法の比較で最も注目すべきところは何か。

 

思うにそれは、主権在民でもなければ、平和主義でもない。注目すべきは、明治憲法が国の手続き的原則を示す条文が主なのに対し、現憲法は理念に踏み込んだ内容になっていることだ。


この差異は重要である。それはつまり、憲法とは必ずしも、国の理念を詳らかにする法律として扱われてきたわけではない事実を明らかにしている。憲法への過度な期待を排したい私にとっては都合のいい事実でもあり、これを足掛かりに現代人が無意識に思い描く憲法の形を覆したい。


理念についての考察は我々の知性を刺激し、ときにとても楽しい頭の体操であるが、全体のルールに昇華させようとすると途端に厄介になる。率直に言って理念に答えなどないのだ。

理系には答えはあるが文系には答えがない。だから本当に頭の良い人間は文系に進むのである。仮に答えが出たとしたら、それは個別具体的な状況における判断の基準としての存在感なのだ。

 

具体的な状況という前提なしに、理念の優劣や是非を決めるのは非常に難しいと思う。難しさを払拭できないまま理念を定めなければならないシチュエーションがあるとすれば、それは歴史の要請であろう。

後世の歴史書で間違いなく大ページを割かれる歴史的出来事が人々の考えを特定の答えへと収束させ、一致団結して良かったね、と安堵したとき、理念は一つに定まる。

その後年月が過ぎ、ようやく定まった理念が揺らぐ事態が起こったとする。すると人々はその原因を歴史の忘却に求め、歴史を思い出せと一部のメディアや知識人は叫ぶだろう。確かにそれもありそうだ。

が、それだけでもなさそうである。

最初の指摘通り、不変の理念の決定はそもそも困難であるからだ。


一言で自由や平等といっても、そのイメージは時代によって、国によって、地域によって、人種によって、世代によって、性差によって、所得によって、年齢によって、教育によって、境遇によって、思惑によって違う。

身近な知り合いの命と、見ず知らずの命の重さが違うように、自由や平等もそうなのである。

 

がむしゃらに欲を貪る自由と、誰かを守るために戦う自由を比較して心惹かれるのはどちらか。別にどちらでもよいが、自由の概念一つとってみても見解が割れるのであれば、理念の共有とは掴んでは逃げ、また掴んでは逃げを繰り返す夢の中のやるせなさに通じる。

そうしたものを無理に固定化すれば、やがて歪みが生じるのは想像に難くない。やり方と節度が大切になる。現憲法の場合は果たしてどうだったか。


最近気になるのは、政教分離を記した現憲法第20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の条文だ。

 

天皇の即位の儀式に関連し政教分離の問題が一部メディアで取り上げられたのがきっかけだが、報道を目にするたび、今の憲法つくづくいい加減な法律だなあと感じ入った。


科学技術が発展した現代。特に日本からみれば、宗教は超自然的な想像力の類にみえ、それをリアリズムの政治に持ち込むのは避けるべきとの見解が主流になっても不思議ではない。また、宗教上の争いは国や地域を二分しかねないだけでなく、同じ宗教でも宗派の違いが対立を深めるケースだってみられる。

だとしてもだ。

憲法第20条3項を字義通り、この国に適用するのは過去の歴史との乖離が著しくはないか。

 

日本の習俗が長い歴史の過程で神道や仏教と関連し根付いてきたのが否定し得ないなら、戦前と戦後でそれを断絶するのは無理だ。

やむを得ず政教分離の理念を導入するにしても、国の歴史を踏まえ具体的に良い例と悪い例を示さなければ理念に偏ったつまらない議論を生んでしまう。

少なくとも天皇即位に関連した大嘗祭などを巡っては、天皇憲法に違反しているのではなく憲法が国の歴史に反しているとみたい。戦後の急ごしらえの法律が万能であるはずがないとの良識があれば、必然的に導かれる見解だろう。

 

こうした私見や、これまで各章で述べきた意見が一般の法律論にかなったレベルのものでは到底なく、個人のエッセイ程度の雑論であるのは十分承知だ。

 

私が各章あまねく一貫して主張したいのは、議論の身構え方のほうにある。

 

それは物事を語る際の大局観であり、右往左往しやすいメディア仕込みの世論や専門家流の細かなテクニック話、ことを荒立てたくない庶民の人情感覚などとは一線を画して漸進的に決断を深めていく知性の組み立て方を指す。


もっと今風に換言すれば、生身の人間が行うディープラーニングとでもいえようか。

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Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

AIのディープラーニングは情報の関連付けを複雑に繰り返すため、人間には認識不可能らしい。

私の欲求は、せめて人に認識できる範囲で過去と現在と未来への思索を行き来しながら、情報の関連性を見出し、「腑に落ちる新たな言論を発見したい」、という文明社会の生理現象だとも感じている。

 

人が紡ぐ言論の大部分は誰かの参照や模倣の域を出ず、独自の部分はごくわずかに過ぎない。

そのごくわずかの部分すら自分が知らないだけで既に誰かが語った内容かもしれない。

それでも続けてしまうのは、一つは、先人に少しでも近付きたい思慕。

もう一つは、考えることで得られる快楽への依存性。

この二つが関わっているのは自分の中で疑いない。要因は他にもあるのかもしれないが、まず思い浮かぶのはこの二つなのだ。

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