lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法に対するそもそもの誤解(8)~憲法は理念型ではなく「手続き法的」であるべき

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AIはいざ知らず、人の思考で欠かせないのは批判的な見方である。

 

批判精神を強調すると、えてして批判が目的になりがちでもあるが、意見を単純に受け入れる前に、一度ストップさせるのは知性を構造的にする上で有効な手段だ。

 

憲法政教分離もただぼうっと読んだら、なるほど、と頷くくらいの簡潔さのはず。ちょっと頭を働かせたら様々な相克が浮かび上がってくるのに、何の注釈もなく句点で終わる文章は不出来な作文の誹りを免れない。

批判精神を強調せずとも、ある程度年齢を重ねた人生経験豊かな方々なら普通に気付くことでもあろう。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

作文の出来・不出来に関わらず、憲法がそもそも理念型の色彩を強くしているうちは、理念としても、理念の書き方としても、日本の歴史と整合しない面がある条文がつくられる不格好は宿命的に続く。

不格好をその場その場の解釈でやり過ごし続けると、もはや条文を字義通りに解したら馬鹿扱いされるにまで意味は変容していく。

これが「事実上の死文」といわれる現象である。

しかしだからこそ、積み上がった解釈と判例が保障となり、堂々と死文を置き換える改憲の議論ができそうだ。


理念がやがて死文化するのであれば、その弊害への対策として、明治憲法のように手続き的な性格に憲法を回帰させる方法が考えられる。

国会、内閣、司法など国家運営の基軸に関わる手続き法的な内容に傾斜させ、理念の条文化は必要最小限にとどめるのだ。


このとき「判例を踏まえる」条文を新たに明記しておけば、現憲法上の理念や権利は判例の中で生き続け、判例の意味を強調することで法の支配の実績への敬意にもなる。

あえて理念の条文化を避けることにより、自分たちの文明の退歩なき発展を自覚し、その維持と向上を目指す責任を無言のうちに宣言するわけだ。

 

これはこれで相当、理念的とも取れるが、条文がなくなったら秩序が壊れると慌ててしまう文明と、もはやそうでない文明のどちらが上等か考えてもらいたい。

 

理念を奉じて条文に依存する者たち。その実態は、理念を体現する義務から逃れる卑怯者ではないか。

理念の保守に自信があるのなら決断できる。手続き法的憲法の提起は、世論の偽善や欺瞞を暴く意味でも面白い。

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Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 手続き、というと無味乾燥にも聞こえようが、人の価値判断や利益の比較衡量は確かな手続きの中でこそ生きる。社会に手続きがなければ、価値も利益も、具体的に尊重しようがないのである。尊重したくても、そのための入り口が分からなければ、人々は右往左往するか、巷で罵声を飛ばすだけだ。

 

抗いようのない時代の変化に柔軟に対応するため、あえて国の基本手続きだけ憲法で決めておき、実体的な問題は判例や下位の法律で向かい合う。便利な立てつけであるのに真面目な眼差しはあまり向けられず、理念は空回りを続けている。

 

ここでの主張は憲法明治憲法の「形」に戻すことであるが、明治憲法に対しては長年の悪感情が強く絡みついているから厄介だ。

とりわけ、臣民の権利を「法律の範囲内」で定めるとした運用には批判が多い。

 

だが何度も繰り返すが、戦後の現憲法の下で積み上げた法の支配の実績を鑑みれば、明治期にとんぼ返りする懸念は杞憂でなければならない。

過去の反省が現憲法に生きているのだとしたら、無条件で前例を復活させるのは論理的に、いや知性的に不可能だ。

 

明治憲法から借りたいのは、あくまで「形」であり中身ではない。中身にはより新鮮な肉と野菜を詰め込めばいい。

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