1話<2話<3話<4話<5話<『憲法に対するそもそもの誤解』6話>7話>8話>9話>10話(終)
言葉の魔力については、「言葉はまやかし」と言い換えてもいい。
言葉がベールになり本当の力を隠しているのではないか。つまり、その言葉の力を支えているのは本当は何か。
この観点から言葉を読み解く作業をしないと視界は曇ったまま生涯を終える。
多くの日本人はひんしゅくを買うのが嫌いであろう。けれど、ひんしゅくを買えるというのは、それだけ他人の嫌なところを突くセンスがあるとの見方もでき、馬鹿にできない。
なぜこんな話をするかといえば、賢さは必ずしも学問を積んで備わるわけではないからだ。日々の生活の中で身に付いた感性の重要さは無視できない。むしろ、その不足を補うために学問を修める必要があるとみてもよいかもしれない。
あの福沢諭吉は、この世に不平等があるのは学問の普及に差があるためと看破し学問のすすめを啓蒙した。
しかし、学問を取り込む肝心の器(感性)がひびだらけの不良品では、ひびから学問が零れるか、学問の重さで器自体が割れてしまう。
現代の器(感性)の脆さは明治期よりも場合によっては深刻だ。
現代人は無数のひびも器の味だなんて言いかねず、国民の現状追従の風潮にはとどめようがない絶望も感じる。せめて、私たちは甘いかもしれないというシンプルな自覚でもあれば、その自覚がブレーキとなり、とりわけ、外交を語る言論や振る舞いに微妙な変化をもたらす可能性もあるのだが、変化が実を結ぶには途方もない時間が要るだろう。今を生きるほぼすべての人々の存命中に達成不可能なのは言い過ぎともいえない。
現憲法に書かれていないパワーの源は米国だ。
もし、この憲法の前文が「米国は告ぐ。日本国民は……」で始まっていたら、まったくもって内容も過程も筋の通った揺るぎない法律であったろう。
秩序を重んじる者ならルールは守らねばならない。しかし、いつまでも守らねばならないルールなどありはしない。昔のルールに従う不都合が顕著になれば作り直せばいいだけだ。
古いルールで積み上げてしまった判例は自業自得の枷として引き継ぎつつ、できる限りの新たな道を模索するのが悪いはずがない。
それでも、あなたの胸にまだ抵抗感があるとしたら、その原因を真剣に探してみることだ。原因を探してみて、原因などなかったと気付くこともある。気付いたことにより、すべてを御一新したい欲求が覚醒する方もいるはずだ。
しかし残念。
その人たちも、もはや、革命を起こし成功させたときにしか救われないのである。