lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

憲法に対するそもそもの誤解(3)~「心の平和」を真に受けたら外交の駆け引きはできない

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少なくとも、欧米人が現実的に考える平和像は日本人とはまったく異なると確信する。

 

特にヨーロッパを巡っては、隣国と長年幾度も争ってきた経緯と経験があるのを洞察しなければならない。

戦争のない状態こそ平和、つまり、多少の小競り合いや罵り合いはあっても重火器の飛び交わない平定状態こそ現実的な解決策としての平和、との常識がモラルにまで発達する素地が欧州にはある。

 

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 日本国憲法が言う「恒久の平和」がこの意味であるなら、やり方次第で到達に迫れるのだが、心の平和まで人類に要求してしまうのは酷だろう。

日本人は一度の大敗によるショックのためか、または戦争のあるなしにかかわらず生来・文化由来の気質のためか、平和の概念を平定による表面上の武力の沈黙ではなく、心の平和と妄念してしまい、世界もそうだろうと誤信した。

この遺産は、確かな勢力を今も保っている。


個人的な信念や宗教上の観念として心の平和を願うのは結構だが、安易に政治に持ち込むのは好ましくない。

政治家が美辞麗句を並べるのは避けられないにしても、国民の側が真に受ける理由にはならない。

真に受けるのなら、所詮それだけの器ということだ。

 

心根の正しさを何でもかんでも政治に強要するのは危険ともいえる。

とりわけ外交では、切れるはずの手札を自ら封印し、もはや交渉の前から行き先の決まった隘路にはまりかねない。

 

こんな日本人の性質を見事に表現した台詞をある英国映画で目にした。


 ――この前、日本人の男の子にしたように、はったりをかけてみるか。
 ――馬鹿、そんなもの通用するか。俺はこれ(銃)を使う。


何気ない観賞中、不意に出たこれらの台詞がどうしようもなく私を気恥ずかしくさせ、苦笑いしてしまった。

映画のストーリの如何はともかく、この一幕だけで一見の価値ありと思ったものだ。

 

私なりの解釈では、物事の駆け引きで実力行使をちらつかせるのは当然、はったりで折れるのは日本人くらい、そんな揶揄が含まれているとみた。

なるほど、英国人には日本人がこう見えているのか、自分と同じではないか。そう関心しつつ気恥ずかしくなったのは、日本人の気質が皮肉の台詞の種になると世界のエンターテインメントはとっくに分かっているんだなあと知り、日本人の世間知らずをしみじみ確認したからである。

 

日本人の最大の弱点は、幼稚な世界観にあると言い切って差し支えない。

異文化に興味がある外国人観光客を呼び込むには大変役立つ幼稚さだが、それを世界が認めた国民性と喜んでいては幼稚さも極まれりだ。


さらに見落とせないのは、平和の意識や形というのは、その国、地域により態様が相当複雑なため、これという完成形を見出すのが難しく、心の平和を求める純真性は相手の目にかえって強迫的に映りかねない、という側面だろう。

 

時と場合をわきまえない正義と正論は、貫き通せば対外関係に修復不可能な亀裂を生む。

 

ところ構わず正しさを主張する側は、相手を追い込んでいることに気付かず、反論されたら居直るのかと語気を強め、これは道徳の問題だと改心を要求し、実現可能な具体的対処に蓋をしてしまう。

なのにそれが、彼らには譲れない正義の姿であるらしいのだ。

 

このような姿が招く事態は、北朝鮮の核問題で明らかなように感じている。

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