1話<2話<3話<4話<『憲法に対するそもそもの誤解』5話>6話>7話>8話>9話>10話(終)
日本国憲法前文の続き。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
これで前文は終わり。
もはや指摘するまでもなさそうだ。
一体どの口が、自国のことのみに専念するな、などと言わせるのか。敗戦国ごときが余計なお世話を、と一蹴されて然るべきである。
しかも、他国と対等関係に立つのが責務と信じておきながら、この国はいつも米国と対等ではなかった。
法律には原則と例外があるが、米国はまさに憲法の例外であったのだ。
やや難癖混じりに言えば、日本人は現憲法をかなりの思い込みで読み込み、幻想への到達を真実と信じて邁進しながら、案の定、草案作成者の米国に邪魔されてついに崇高な理想を成し遂げられなかった。
泣けてくる話ではないか。
世界に日本を知ってもらう前に、米国をもっと真剣に執拗に解析する宿題が、戦後70年経っても解決されないままでいる。
もはや時効を迎えた未解決事件と言うなかれ。事件が迷宮入りしている間に、被害者とその遺族は爆発的に増加しているのだ。
米国は元々、不干渉主義の国風とはたまに聞く話である。
1823年、第5代大統領モンローが外交の相互不干渉を宣言したモンロー教書を指してのことなのだろうが、しかしこれは、米国とヨーロッパ諸国との相互不干渉を確認したもので、それ以外の地域に向けられた宣言ではない。海を挟んでお互い勝手にやるから干渉はしないといった話で、米国はいずれの他国にも干渉せずとの意思を明らかにしたものではない。
一部の表面上の行為だけ見て、全体の性向を捉えるのは無知を凌ぐ害悪に思える。
「~主義」「~イズム」と名付けられると、あたかもそうした頑なな思想がこの世で確立していると勘違いする人はけっこういる。
言葉の魔力は本当に恐ろしく、言葉による定義は人々に大きな説得力を持たせる。
原因不明の体調不良で悩んでいた人が病名を告げられ、心なしか不安が和らぐ現象も言葉の魔力に似ている。
実際の米国にかなりの干渉癖があるのは周知の事実であろう。
相手によって、時と場合によって干渉と不干渉を使い分けるこの態度から見えてくるのは、自己の生存と利益を貪欲に望み、いくら獲得しても満足しない飽くなき欲望。
情念に寄った表現になってしまったが、この1点において米国は1ミクロンも揺らいでいない。
言葉の魔力を拝借して、米国を一言で表せば羊頭狗肉。自由平等の羊頭を掲げて、収奪・隷従の狗肉を売る。実に商売上手なお国柄だから大したものだ。
そういえば、米国の俳優ブラッド・ピット主演のハリウッド映画『ジャッキー・コーガン』で、主人公が「アメリカは国じゃないビジネスだ、だから金を払え」とラストシーンで吐き捨てるのだが、米国の本性を見破ったうまいシーンだと思ったものだ。
そんな映画を米国人が自ら制作し海外に売りつけて大金を稼ぐのだから、もはや単なる商売上手の域を越え、マネーのあるなしが彼らには至上の価値であり、価値を高めた者がきっと人格者とも見なされるのだろうな、と納得してしまう。
米国の思考をビジネスの観点ですべて捉えられると言い切るつもりはない。ビジネスにもそれぞれ趣味、嗜好がある。
それでも、こと外交政策で露骨にこちらの自尊心を踏みにじる要求を力任せに突きつけてくるのは、いい加減もっと見下していい彼らの病気ではないか。
国内では人権保護を高らかに謳い、外国の政府と国民にはハラスメント行為で人権を棄損してくるのだから相当にいかれている。
米国民には気のいい人間もたくさんいるだろうが、米国政府となると彼らはいつもこうなのだ。
しかし、いくら他国の品性を非難しても仕方ない。
事実を踏まえ、せめて子どもたちには対米教育をしっかり受けさせてあげ、今の大人たちのような不幸が少ない人生を歩ませてあげるべきではないか。プログラミングや英語を教えるより、個人の人生でも国益でも確実に有効な教育になる。
将来グローバルに活躍したいと思うなら、英語よりまず米国のビジネス的思考に慣れておいたほうがよい。