lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

新型コロナ、専門家らによって死なされる前に確認しておくこと

出遅れの憂き目にまた陥るかもしれない――。

コロナ不況からの脱却に向け、各国が社会・経済活動の再開を模索し始めている。欧米に比べ死者数が低水準で、先陣を切れたはずの日本の動きは鈍く、回復のシナリオで後塵を拝する恐れがある。この国が有利な立場を生かせず低空飛行に陥る顛末は初めてではない。感染症対策を仕切る専門家に政府、コロナ恐怖の狂信者に堕ちたマスコミと国民らによって死なされる前に確認しておきたいことをまとめた。

目次

 

専門知の危険

100人を犠牲にして秩序を守るのか、秩序を犠牲にして100人を救うのか。

倫理の葛藤はあるにせよ、出すべき答えは簡単なはずだ。

防疫の場合、それが致死率の高い大病だったら命を守るし、そうでない病なら秩序の維持を優先する、となるだけのことである。

 

しかし日本人は、大病でもない病気のために秩序を大きく狂わせ、「一人残さず命を守る」と躍起だ。そのために、死ななくていいはずの病気が遠因で何人の命が脅かされるのか。新型ウイルスを恐れて敵視するあまり、世界は元々相克に満ちている事実が、まったく見えなくなっている。

 

これには国民の愚かさはもちろんだが、専門家の罪も大きい。

 

「専門家」と呼ばれる人たちが、こうまで信頼され、もてはやされるようになったのはいつからだったか。学問の細分化が進む以上、各分野に精通した知識人から情報を学ぶ社会行動・様式が普及するのは致し方ないとして、疑問を差し挟む余地もないほど、彼らの見識が正しいとされる根拠はどこにあるのだろう。

 

細分化した学問は翌日には、また細分化を進め、昨日の最先端だった若者は明日には古い時代のロートルとなり果てる。

一方、あまりに細分化してしまった学問の専門家たちは、もはやその専門外のことはほぼ分からない門外漢となってしまい、複雑多彩な一般世間との相互作用で支障をきたす。その専門分野の学会などでは「正しい」と評価される言説でも、世間にそのまま当てはめるのが困難な場合が生じるのだ。この程度の乖離は彼らも承知していて、彼らが公の場で意見を述べる時は、ほぼ必ず「専門家の立場としては・・・」と領分をわきまえているような前置きをする。

しかし、そこから語られる「私見」は、とても領分をわきまえたものとは言えず、終始、原理主義的に意見を押し通してくる。

 

その姿勢がかえって、「専門家としての矜持を発揮している」とメディアに映り、「歯切れの悪い政治家より信頼できる」と感じてしまう市民もいるのだろう。残念なことだ。

 

「高度な知識」=「正しいもの」との構図は、今や広く共有されてしまっている。高度な知識は、その高度な分野にとどまっている限りにおいては確かに正しい・・・ということくらいは、小学生でも分かる。この世界は、様々な分野の相克で成り立っている。だから、ある一つの分野に特化して物事を決断するのは、これまで築き上げてきた相克のバランスを崩し、現在の社会を崩壊へと導きかねない。こうした事態が着実に進捗している。

 

感染症前後でこの国は変わらない

新型コロナウイルス感染症が「罹れば必ず死ぬ」病であるのなら、既存のバランスを失ってでも国家・国民の存続だけをひたする希求するという方向性を理解はできる。今の秩序を守って人類が滅んでは意味がない、と多くの民衆は納得するだろう。ただその場合でも、実際に存続できる国民はかなり限定されるという点は押さえておかなければならない。

真のクライシスの前で、犠牲はどうしたって避けられないのだ。

 

新型感染症が史上類のない大病であるなら、世界を挙げて対策を施そうとも病気が直接原因の犠牲は多く出るし、感染収束後に世界は様変わりする。それほどの病ではなかったとしても、「秩序優先」の結果、病気への抵抗力が弱い人たちの犠牲もまた出るだろう。犠牲の出ない防疫はあり得ない。既に犠牲が出ているから防疫に取り組むのだ。要は、どれだけの犠牲を許容するか、どこからは切り捨てるのか、という選択の問題である。

 

新型感染症について、「このままでは日本も欧米のように感染爆発する」と警告していた専門家らは現状をどうみるのか。

「我々が主張した社会活動の自粛がうまくいった」「この調子で自粛を続ければ感染拡大をより抑えられる」

本当にそう捉えているとしたら、彼らは既に専門家ではない。

 

自粛が等しく効果のある対策なら、実践した国々で効果の程度が同水準に収れんしなければおかしい。まして、より強力な自粛である都市封鎖に踏み切った欧米各国に比べ、活動制限が緩いはずの日本で死者数がずっと少ない現状を「自粛の効果」だけでは説明しきれない。愚か者の市民の脳裏にだって、湧いてきて当然の疑問である。

ならば、「別の要因があるかもしれない」と探求の方向を転換してみるのが本当の専門家ではないか。昨日までの仮説に自ら疑問を投じ、見込み違いですら研究の糧にしてしまう面の皮の厚さで真説に迫ってこそ、知識の探求者と言える。

 

今の専門家会議のメンバーは、感染症から広く国を守るために集まった専門家ではなく、感染防止で自粛策を弄するための専門家に過ぎない。

おそらく、この点は本人たちも認めるはずだ。「ご指摘のような研究は別の方々が担っています。我々の役目は感染拡大を防止することです」。立場の限界をあっさり認めることで非を浴びないテーブルに座し、堂々と社会機能を麻痺させる提言を繰り返す。

 

「それが我々の業だ」などと本気で考えているかどうかは知らない。仮にそうだったとして、もっと情けないのは政治家、マスコミ、そして国民だ。

「この人たちの言うことを、これ以上まともに聞き入れたらまずい」

こうした常識的感性がいっこうに発揮されず、「未曽有の事態だから仕方ない」と物分かりよく振る舞ったり、「とりあえず専門家に従っていれば、むしろそっちのほうが安心」と盲信したりするのが進化した文明人とでも思っているのだろうか。専門家の危うさより、こちらの思考停止のほうがよほど深刻だ。

 

感染症の前後で世の中の秩序が変わるなんてことは、望んでいないし、思ってもいない。「変わる」とする人たちもせいぜい、テレワークに代表されるような働き方の変化だったり、サプライチェーンの再構築だったりを発想するのが関の山ではないか。

今回の件で学ぶべき課題があるとすれば、「専門家の正義」「国民の思考停止」「社会の総合性」の間で、どう政策を判断・遂行していかなければならないかという社会学政治学についてである

 

しかし、この発想を持つことこそ日本人には難しい。その意味で、世界はいざ知らず、感染症の前後でこの国の秩序が変わるなんてことは、まったく思っていない。愚かさのレジームが完成に向かうだけである。