・・・やっぱり死ぬのか。うん、そうでなくちゃ。
生きたままだったら意味がない。死が迫るから熱く戦えるし、何度も死を目撃して強くもなれる。あまり目撃しすぎてもニヒルに傾くが・・・。
その境界を往く物語こそ、牙狼。
「争う必要なんてなかった」(VR4話から、空遠世那・クオンセナ)
牙狼『VERSUS ROAD(VR)』第4話で、ゲームの仕組みの一端が明かされましたね。
ゲーム内でホラーに喰われた者は(ゲームを辞退した者、参加者に殺された者も)、現実で死ぬ。
そうだろうなと感じてはいたが、やはり。
第3話で、ゲーム進行役の女性・朱伽(シュカ)が辞退者に対し「本当にいいのか?」と念押ししてた理由もこれで分かった。
あのゲームは一度参加したら勝ち続けるしかない、生きたければ。
けど、第3・4話を通じて描かれた2回戦。実は、参加者らは無理に戦う必要はなく、事前に渡されていたアイテムが強く願うことで欲しいものに変形し、それがゲームクリアの鍵となる仕組みでした。
「希望と絶望は同じ」(4話から、葉霧宵刹・ハギリショウセツ)
なるほど。負ければ死ぬ絶望のゲームでありながら、勝つための希望がすぐ近くにある。あるいは、勝つための希望はすぐ近くにあるが、負ければ死ぬ絶望のゲームの前で誰もそこに気付かない。
そんな設定が当てこまれていたのだろうか。
ゲーム終了が近付くにつれて起こる、各キャラクターたちの唐突でやや雑な裏切り行為は、もはや牙狼の世界ではお馴染み。
脚本を非難してるんじゃないんです。30分のドラマで一定のまとまった展開をつくろうとしたら、はしょるところははしょって全然いい。観ていて、足りないな、と思うところは想像力で補う。それが視聴者の義務だ。
義務が心地いいと感じる機会はそうそうない。
変に「溜め」を設けずにシーンを進めた方が、後でこちらがいくらでも印象や解釈を上書きできるから、そっちの方が楽しいのです。
深く考えたり、感じたりするのは本来とても楽しいものだ。そうすることで、淡白な個人の人生が重層性を帯びて人格が豊かになる、そんな気がする。
つまらん仕事やノルマについて考えさせられたり、周囲の同調圧力を感じさせられたりするのは大いに面倒ですけどね。
VR4話を観て特に関心を持ったのは、ぎりぎりに迫られた時の人間の反応。ありがちなシーンといえば確かにそうですが、時代感覚を重ね合わせることで様々な深読みが可能です。
誰だって、「もうやばい」と切羽詰まれば、目の前の救いに手を伸ばす。空遠の幼馴染・星合翔李(ホシアイショウリ)はそれで助かったといえる。
「死んだって構わない」なんて態度をとれるのは、どう考えたって普通じゃないのでしょう。
けどなぁ、自分は「死んだって構わない」になりたいんだよな・・・。
正直、生きていても、することがない。
仕事をしていても、することじゃない。
不謹慎かもしれないから小さい声で言いますが、志村けんや岡江久美子の代わりにでも死にたかった。チャンスを貰えたら買ってでも代わってやった。
彼らがコロナごときを相手に、
「戦う必要なんてなかった」でしょう。
どうしてコロナで死なないかな、俺。頼むよ。殺す相手を間違ってる。
他人のために自分を犠牲にできる空遠だって、2回戦の終盤、生き残りたくて願った気持ちがアイテムをキーに変形させ、どうにか助かった。普通はそれで上出来。
「ただ死ねばいい」(赤木シゲル風)なんて、なかなか思えないし、思えてもそうそう実行できはしない。
けどな、そこまで分かって、そうでない自分もいるなぁ。
まさに「希望と絶望は同じ」
やっぱり、牙狼は情操教育にぴったりだね! ・・・説得力ないか。
希望と絶望は同じと言っておきながら、どちらかといえば絶望よりなのが自分。残念ながら、俺は黄金騎士にはなれそうにない。
いずれにせよ、新シリーズVRで新たな牙狼は誕生するのか、それとも・・・。
そろそろ眠狼。