lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 13 スペイン王位継承問題

 

二 対仏開戦の最好時機

 

このルクセムブルグ問題以来、ナ帝のビルマルクに対する反感は加わり、ドイツを一つ討伐してやろうという気も萌し、密かに伊墺両国を説いて対独同盟を作らんと企て、一八七〇年には墺匈国の一大公との間に対独作戦計画をも立案し、かつドイツ嫌いにのグラムモンを新たに外務大臣とした。

 

グラムモンはプロシアの六六年の対墺戦役の折にプロシア討伐をナ帝に献策した人で、それをビスマルクが疾く耳にしておったから、彼を好く思うはずはない。

されば彼が外務大臣となったということを聞くや、ビスマルクは在ベルリン仏国大使ベネデッチに『これはナ帝に何か陰謀のあることを暗示するものである。さもなくば、帝はあんな愚物を外相に任用する訳がない』と語った。

   

それがさらにグラムモンの耳に入ったので、彼はいたくビスマルクを憎むようになり、排独の念はいよいよ長じた。

ナ帝側そうなれば、ビスマルクとしては願ったり叶ったりである。

 

プロシアとしては、軍事的見地においては一八七〇年は開戦の最好時機であった。すなわち南ドイツ連邦はプロシアと同盟の結果急速に兵員を増加し、一年に十万人ずつを加え、七〇年には予定数たる三四十万の兵が増加する計算である。

 

また政治上からこれをみれば、開戦は一八七〇年を越えないうちにやるのが最好都合であった。なぜならば、当時南ドイツ諸連邦のプロシアに対する反抗的暗流がようやく強くならんとしつつあり、しかしてその兵力が充実した上で反抗されてはたまらないから、その充実しきった時にこれを対外戦に転ぜしむるのが得策であるからである。

ビスマルクモルトケ参謀総長もルーン陸相も、みな期せずして所見を一にした。

ビスマルクは気運を作為し、ルーンは軍制を整備し、モルトケは作戦を実行する、その任務相異なれるも機務の案画はことごとく一途に出でて寸毫も乱れない。

この三人は形態は三つなるも精神は一で、まさに三位一体である。

 

当時仏国側にありては、ナポレオン帝の権勢はようやく衰え来たり、帝の専制主義に対する自由主義は次第に台頭し、一八七〇年の一月にはオリヴイエーを首相とする自由党内閣ができた。

この新内閣は平和主義を標榜し、現に新内閣の外務大臣ダルーが同年二月十五日付にて英国政府へ致したる外交文書の中には、仏国は軍備縮小に意あることを述べたくらいである。

甚だしきは、自由党中の急進派は、軍備を半減すべしとの論をだに唱えた。かくの時の政府は進歩せる自由思想を有せるものであったが、国際競争の潮流を見る眼力、および外交運用の能力は全く欠けておった。これがいよいよもってビスマルクのつけ込みどころである。

 

ビスマルクは、ただ何らかの好口実――仏国をして外交上不利の地位に立たしめ、列国の仏国に対する同情を失わしむるが如き好口実――を捉えんと狙う計りになった。

 

三 ベルギーを餌に英国を怒らしめんとす

 

プロシアが先にオーストリアを伐つや、イタリアと同盟し、伊をして墺の背後を衝かしめ、墺の兵力を二分せしむるの策を執って大勝利を博した。

そこでビスマルクは、今度もプロシアが仏国を伐つに当たりては、スペインかイギリスかを味方に引き入れる、イタリアは当時重ねて先端を開くだけの余裕がないから、西が英かそのいずれかをして背後から仏国を衝かしむるを得ば一層妙である、とビスマルクは考えた。

 

これに対し英国はどうであるかというと、英国は大陸のことには大体において関与せずという方針であるが、さりとて仏国にしてもしベルギーに手を出し、ベルギーを侵略するとなれば、英国はこれを黙過しないで、必ずや仏国と戦うに相違ない、とみたからビスマルクは、しきりに仏国に向かってベルギーを取れと勧める、勧めるにおいて仏国にベルギーを取らせ、英国を怒らしめ、よってもって英国をして仏国の背後を衝かしめる、という策である。

 

ナ帝は心動き、ベルギーを取りたくてたまらない。喉から手が出そうである。けれどもなかなかそこまで思い切ってやりだすまでの決心がつかない。

すなわち英国をして仏国の背後を衝かしむるという時期がちょっと来そうにもなかった。

 

四 スペイン王位継承問題

 

そのうちにスペインのほうは、形勢が大分面白くなってきた。

これより先五六年の間に小規模の革命が数度起こった。

しかして一八六八年に革命党はついに政府を転覆し、女王イサベル二世を廃位し、軍隊の首謀者が一時政府を急増的に組織した。

 

当時スペイン国民中には共和制を希望せる者も少なくなかったが、議会は立憲君主制を可なりと議決したので、結局王位の継承者を探すということになった。

 

革命臨時政府の総裁兼軍総司令官のブリム将軍(のちに刺客の手に倒れた)は欧州のカトリック教の諸皇室にスペイン王の候補者を探してみたが、いずれも長し短しである。

   

この時勢を見たるビスマルクは考えた、もしプロシアのホーヘンツオルレン王家からスペイン王の候補者を提供し、ナ帝に出し抜けにこれをスペインの王位に据え付けたならば、彼は驚くに相違ない、さりとて他国の国民が自国の王さんを勝手に選び戴かんとするに対し、彼は正面からこれに故障を挟み得る理はない。けれどもプロシアに対しては、彼は大いに感情を害し、大いに怒るのは必然であろう、したがって彼から喧嘩を売ってくるに相違ないと。

 

それはそのはずである。当時ナ帝はプロシアが日の出の勢いで国力の昇昂するのを見て半ば嫉視し、半ば危惧しおれる折柄とて、プロシア系統の王族が来たりてスペインの王位に就き、東と南から仏国を圧迫するような状勢となるのに黙視するはずはないからである。

しかのみならず、ビスマルクはなお考えた、スペイン国民がプロシアの推挙するホーヘンツオルレン家の一王族を歓迎し、しかして仏国がこれを好まぬとならば、スペイン国民は仏国に対して感情を害する。

しかして仏があくまで普とこれを争い、これがため普に対し開戦するとならば、スペイン国民は普に味方するに相違ないと。

 

ビスマルクのこの胸算といかほどまで連絡があったかは詳らかでないが、スペインの議会の統一党首領サラサールは一八六九年二月、ホーヘンツオルレン家のレオポルド公を自国の王位に推挙するの議を提出し、議会も政府も賛成した。

レオポルドは辞退した。しかるにビスマルクは胸に一物あるので、嫌がるレオポルドを口説き落として翌七〇年に入り無理矢理に承諾せしめた。

 

レオポルドはルーマニアの前王カロル一世の兄で、ビスマルクのレオポルドを推した当年の種々の関係は、カロル王が一八九四年以降一九〇〇年の間に数回にわたりて公刊したる回顧録において詳細に世に知られた。

ただ原文はドイツ文で、仏訳はあるも英訳がないから、広く世に読まれてないようである。

鉄血宰相ビスマルク傳 14 仏国の大抗議 - 片山英一’s blog