lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 14 仏国の大抗議

五 仏国の狼狽および大抗議

 

スペイン側では、レオポルドがいったん辞退したので、ちょっと他の候補者を求むるに困ったが、彼再考の末承諾したということになったので、一八七〇年の六月十六日、改めて再び正式にこれを候補者に推挙し、レオポルドは同月二十八日正式にこれを承諾し、次いでスペインの議会はその旨を公表した。

 

これを聞きたるナ帝は、おのれを出し抜ける措置として烈火の如く怒った。

仏国民もプロシアの行動を僭越なりとして怒った。

仏国が激怒すればしめたものである。しなわちビスマルクの落とし穴にかかるのである。

ビスマルクはスペインをしてレオポルド正式奉戴の一条を公表せしむるについて最好の時期を選んだ。

 

欧州の外交界はその年六月より七月にかけては極めて無事泰平であり、プロシア王は遠くエムスの離宮にあり、ビスマルクも疾と称して外務省の事務を次官に託して郷里のヴアルヂンに遊び、ベルリン駐箚仏国大使ベネヂッチもウィルドバードの温泉に悠遊自適しておった。

すなわち英国政府にありても、同年七月外相クラレンドンの死に次いで外相となれるグランヴィルが欧州の政局に通暁する次官のハムモンドに現下の緊要課題は何であるかと尋ねたるに、同次官は『外交界の泰平無事なること昨今の如きは稀である、閣下安慮せられて可なり』と答えたるほどで、しかも、この問答のあった日は、実にレオポルドがスペイン行きを承諾したる日で、実に普仏の開戦に先立つ僅々三週間前のことである。

もっていかにことが最秘密の間に取り運ばれたかが分かる。

 

内外の一流外交家がかく揃いも揃って油断に油断し切っておれる際に突如このことが公にせられたので、仏国の周章狼狽したのは当然である。

 

仏国政府は七月四日をもってプロシア政府に対し大いに抗議した。翌五日、仏国の下院においてはこれを関し質問が起こった。

外務大臣グラムモンは、六日これに対し答弁して曰く、

『スペイン革命政府の主脳ブリム元帥がホーヘンツオルレン家の一王族レオポルド公をスペインの王位に推挙したこと、および彼がこれを承諾したことは、ともに事実である。けれどもスペイン国民自身は、まだ賛否を表決しない。本政府は、我が国に秘して行われつつある交渉の詳細については未だ知るところがない。したがって今日これを討議するも実際的結果に達し得ないから、諸君はしばらくこれを延期せられんことを希望する。…本政府はスペイン国民に対し既往常に同情を表し、かつその内政に対する何ら干渉の外形をだに示すが如き一切の行動を避くるにかつて怠るところなかった。王位継承の幾多の候補者についても、本政府は今日まで厳正中立の態度より離れない。また誰を好み誰を嫌うかの意を示したこともない。今後もまた同様である。…けれども隣国の主権に対する尊重は、我が国をしてある外国(プロシアのこと)がその一王族をスペインの王位に据え、よってもって現下の欧州均勢を我が国の不利益に攪乱し、我が国の利益および名誉を侵害するをもなおかつ黙して忍ばざるべからざらしむるものとは本政府は解しない』

 

この演説、殊にその末段を読んだビスマルクは、『いよいよ仏国から戦争を仕掛けるらしい、開戦の決心なくばグラムモンにはかくは言えまい』と閣員に語った。

   

これより先ベルリン駐在の仏国代理大使は本国政府の訓令により、プロシア外務省に出頭し、折柄ビスマルクは前述の如く郷里に帰省中であったので、外務次官のチーレに面会し、スペインの王位継承候補者の件について説明を求めた。

 

チーレは先にプロシア国王のレオポルドをスペインの王位に推挙することに関する御前会議(同年三月十五日)に列席した一人である。このことは前述の前ルーマニア国王の回顧録にも明記してある。もっともビスマルクの有名なる回顧録には、当日この御前会議のあったということを非認してはあるが、当日宮中で午餐会のあったことは肯定してある。したがって争いは正式の御前会議であったか、尋常の午餐会であったかの点に過ぎず、いずれにしても当日何らかの会合があり、その際スペインの王位継承問題の話題に上ったのは疑うまでもない。

 

とにかく次官チーレは当日宮中の会合に列席した者なので、問題の消息には十二分に通じておったのである。

 

そのチーレは仏国代理大使に対し、当外務省は外務省としてはスペイン王位問題については何ら与かり知るところなしと答えた。これはビスマルクの指図に由ったものである。

ビスマルクは、スペイン王位問題は全然スペインの内政問題でありホーヘンツオルレン王家の指示問題であり、プロシア政府としては何ら関知するところなしと自分も言い部下にも言わしめた。彼はかくして仏国をしてスペインに抗議せしめ、スペインとの間に葛藤を生ぜしめんとの魂胆であった。

 

ベルリン外務省はかく本件については何ら知らず、また何ら関心を有せずとの風を装い、一向要領を仏国政府に得さしめない。

そこで七月七日、ナ帝はさらに当時ベルリンに帰任せるベネデッチ大使に訓令して速やかにプロシア王の避暑地たるエムスに行き、親しく謁見を求めて目の当たり本件を尋問すべしと命じた。

ベネデッチはこの訓令の下に、ただちにエムスに急行し、ウィルヘルム王に謁した。

王はかねていかにベネデッチに答うべきかついてビスマルクより委細教わっておられる。

 

されば王はベネデッチに対し、『プロシア政府はスペイン王位候補者についてなんら関知するところはない。朕はこれについて多少聞き及んだことはあるけれども、朕のこれを聞いておるのはホーヘンツオルレン家の家長としてであって、プロシア国王としてではない。したがって朕は未だかつてこれをプロシア政府の閣議に付したこともなし』と答えた。

すなわち巧みに公私の使い分けをやったのである。

 

ベネデッチはこれをパリ政府に報告した。

ナ帝はウィルヘルム王のこの詭弁に激怒した。

王は由来詭弁を弄する人でなく、温厚かつ正直の君主で、ただビスマルクの指図せるままにしかく述べたに過ぎない。

 

故に王はベネデッチに左様語ったものの、さらに同大使とスペイン王位継承問題に関し種々意見を交換した。

ビスマルクははじめよりこれを好まない。王が直接話をすると、どんなへまをやるかも知れぬから心配である。

故に直接の階段を避けしめんがため、委細は臣に談合すべしと同大使にお答えありたしと奏上しておいた。

けれでも王にはこれに頓着なく、同大使と直接に話をやった。のみならず王は、ビスマルクと違って仏国と戦うのを好まないから、ややもすればベネデッチに譲歩せんとするの風がある。かつ当時の欧州列国の意見は、仏国の抗議を尤も千万なりとするに傾き、プロシアには同情が薄いほうであった。

 

そこでレオポルドは、前途を心配してまたまた候補を辞退した。ウィルヘルム王も辞退賛成であった。王は当時七十三歳の高齢で、あたうべくんば平和に晩年を送りたいほうであった。ことに平和を熱心に礼賛する王后アウグスタは、涙を流して開戦を諌めたので、王はこれに動かされ、多少の譲歩をしても無事に局面を収めたいという考えになった。

   

当時ヴァルヂンの私邸に休養中なりしビスマルクは、この情報に接して驚いた。

せっかくの九仞の功を一気に欠くようでは大変なりとて、急ぎ同地を発し、十時間を急使してベルリンに還った。まさに一八七〇年七月十三日の夕刻である。

 

情勢はいよいよ彼の深謀遠慮を裏切らんとする。

彼はたまりかね、即夜エムスに急行し、王に拝謁して大いに諫争すべく決心し、委細を打ち合わせすべく腹心のモルトケおよびルーンの来邸――今日のベルリン外務省、当時は宰相官邸――を求めた。

 

両星到るや、食卓を共にしつつ密談に入った。そこへエスからの一情報が来た。

王は重ねて直接ベネデッチを引見するに意あるが如しと。

次いで第二の情報に言う、王はスペイン王位継嗣問題を全然撤回せられんとすと。

ビスマルクはいよいよ驚き、いよいよしかる上は断然骸骨を乞うのほかなしと両星に向かって最後の心情を打ち明けた。

 

外交戦は著しく苦しく仏国のほうに傾いてきた。そこまで漕ぎ付ければ仏国の外交は大勝利である。そこまで漕ぎ付けしめたのはベネデッチ大使の大手柄であった。

鉄血宰相ビスマルク傳 15 エムスの電信 - 片山英一’s blog