lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 12 いよいよフランス

第二項 七〇年役の外交運用

 

一 いよいよフランスの順番

 

かくの如くにして北ドイツ連邦プロシアの統御の下に成り、ビスマルクの大業はその一部の成功を告げた。けれども、そはわずかに一部で、全部の目的はいまだ達しない。なぜならば、南ドイツのバーデン、バイエルン、ウェルテムベルグ諸邦は、いったんはプロシアの節度に服したけれども、内心これに服するをいさぎよしとしないで、ややもすれば離反の色がある。

 

ビスマルクは、これら諸邦を充分に抑え、その統御を固むるには、順序としてまず連邦の共同の敵たる仏国と一戦し、南北連邦を打って一団としてこれに当たらしめ、よってもって国内の統一を計ることの必要なるを感知した。

かくすでに意一たび開戦に決せば、次には最善の機会と最上の口実を捉えることに向かって彼は歩武を進める。

 

この機会は、普墺戦争の翌年すなわち一八六七年にもあった。すなわち仏国にルクセムフルクをオランダ国王より買収せんとしたるその時である。

 

ルクセムブルグは一八一五年のウイーン会議において、従来のオーストリア領(以前は仏領であったが、革命乱の時に墺領に移った)より切り離して建設せらた一公国である。オランダ国王は同会議においてその領土の一部をプロシアに割譲せる代償として、ルクセムブルグの大公となった。その後一八三〇年七月のパリ革命騒動の時、ベルギーと共にオランダの覇絆を脱せんとして成らず、翌三一年十月、列国はロンドン条約にてルクセムブルグを二分し、より大なる西部一半はこれを新立のベルギー領とし、余の一半(中にルクセムブルグ市がある)は依然オランダ国王の下に一公国として存せしめた。

この分割はベルギーもルクセムブルグも共に悦ばず、ようやく一八三九年のロンドン条約の再協定にて右の分割実施の運びとなったのである。

 

由来ルクセムブルグの建設せられたる一八一五年の当時にありては、欧州平和の脅威者として恐れられたものは仏国である。したがって同公国の存立の理由は、プロシアおよび北ドイツ諸邦に対する仏国の侵略を防遮するにあった。

しかして同公国はその国防不充分であったので、プロシアが兵をここにたむろしてその守備に当たった。
 

ルクセムブルグは公国となって以来ドイツ連邦中の一部となってあったが、一八六六年の普墺戦争の結果でドイツ連邦は再改造となり、しかしてオーストリアを除外して新たに成れる北ドイツ連邦には、同公国は加わらないことになった。

仏帝ナポレオンは、同公国が一八一五年にプロシアの仏国に対する緩衝地として必要であったとするならば、今日まさに仏国のプロシアに対する緩衝地として同じく必要であるという点で、ルクセムブルグの買収方についてオランダに対し内密に交渉を試みた。

 

ビスマルクは仏国にして同公国を買収すればドイツ国民が激怒するということは百も承知である。

けれどもドイツ国民の対仏感情を刺激せしむるにはお誂え向きであるから、むしろナ帝に向かってはこれを暗に慫慂した。

 

ナ帝は『ビスマルクという奴は俺に提供ばかりする、殊にとかく自分の物でないものを』と人に語ったことがある。そこに気が付くならば、そんな提供に耳を傾けなければよいのだが、そこが欲のためにやはり目が眩む。

彼はオランダに対し買収方を持ち込み、話は大分進んだが、オランダ側ではドイツの激昂を察して中途破談した。

   

その間にドイツ側には、対仏開戦論も起こった。

殊に当時パリに博覧会の開催ありて、仏国の民心は浮かれているから、プロシアの軍部内には、この際に乗じ仏国を襲っては如何と密かにビスマルクに献策する者もあった。

けれども彼は、他国の虚を衝くが如き不徳義の挙はなすべからずと言ってこれを斥けたとある。

ビルマルクは、国家の政策上必要とあらば、他国の虚を衝くに遠慮するような人ではない。ゆえにこの説は怪しいが、畢竟彼はルクセムブルグ問題はもって開戦の理由となすに足らず、戦機もいまだ熟せずと見、開戦論を抑えたのである。

 

同時に英国の斡旋もありて、列国会議にこの問題を協定することになり、一八六七年五月に欧州八大国の代表者はロンドンに相会し、その結果同年五月十一日のロンドン条約にてルクセムブルグを永世中立となすの協定ができて、ことは決した。

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