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鉄血宰相ビスマルク傳 16 新聞操作術

 

八 仏国の宣戦と列国の態度

 

七月十五日、仏国議会にては首相および外相の悲憤慷慨の演説の下に動員に伴う経費支出の要求があり。上院は全会一致、下院は大多数にてこれを可決した。

越えて十九日、仏国はプロシアに向かって宣戦した。

 

かくの如くビスマルクは、その得意の外交戦術――あまり誉めたやり口ではないが、巧妙といえば確かに巧妙に相違なき外交戦術――により、仏国のけいそうかつ挑戦的の態度を利用してついに仏国より戦いを売らしむることにおいて成功した。

 

戦はまず相手国をして挑発せしめ、自国はやむなく起ったという風にし、開戦の責任を相手国に嫁せしむるのは、ビスマルクの長所で、この戦争もやはりその手であった。

故に内外ともに、多くは曲ナ帝にあり直ドイツにありと直覚する。それがどれだけドイツの強みとなったかは測り知れない。

 

同時ドイツには、社会党としてラッサール系のドイツ労働協会とマルクス系の国際労働協会(のちに民主労働党となり、一八七五年両派合同し社会民主党となる)とがあり、その国際労働協会の総理事会にては、吾ら労働者はドイツの防衛に参加せざるべからずと宣言し、プロシア議会においては、リーブクネヒトとバーベルの二人は、ビスマルクの政策もナポレオンのそれとともに弁護するにあたわずと称して軍備の協賛投票に棄権したが、社会党の諸新聞紙は、あるいは仏国の勝利は全欧州の労働者の敗北とドイツの崩壊を意味すと論じ、あるいはナ帝の挫折は仏国民の利益と一致するが故に吾らこれを要望すと叫び、開戦否認の論調とてはほとんどなかった。

 

国外の輿論も、概してドイツ側に有利であった。ビスマルクの苦心惨憺は、単に仏国に対してのみではなかった。

彼は仏国と開戦するの暁、欧州列国の仏国に味方するが如きことを予防するについて違算なき万策をめぐらした。これがビスマルクの外交の妙技である。

 

その前の六四年の対デンマーク戦においても、六六年の対墺戦においても示された如く、彼は列国は中立を守り、相手は孤立無援となるということに確たる見当がつくまでは、決して開戦の危険を冒すようなことはしない。

 

仮に彼をして欧州大戦の勃発の直前にドイツ宰相であらしめたならば、仏国を単独の敵とすることの到底不可能なりしに顧み、けだし局面を開戦に導くの愚挙はあえてしなかったであろう。彼の彼たりし所以の一はここにある。

 

当年のビスマルクは、この点において寸毫の遺産がなかった。それがため仏国は、いよいよ開戦となってみると全く孤立無援であった。

 

まずもって英国は率先中立を宣布した。

プロシア王儲フリードリッヒは、先の対墺戦におけると同じく、今次の対仏戰にもあまり乗り気しなかった。したがって、英国皇室より迎えたるその王妃ヴィクトリアを通じ、同皇室の一角においては多少は仏国に同情する意向もあった。けれども英国の政府としては初めより厳正中立を持した。

 

ビスマルクは英国の中立を握るにはすこぶる苦心したもので、もし先の欧州大戦の勃発、時のドイツ宰相ベートマン ホルウエッヒが英国の態度に関しビスマルクほどの細心の注意を払ったとしたならば、大戦の局面はけだしあんな始末とはならなかったかもしれない。

 

九 ビ公の新聞操縦術

 

ビスマルクはただに英国をして中立態度を厳守せしめたのみならず、プロシアに対する英国の同情を固く握るについて巧妙なる新聞政策をも行った。

 

彼は、ナ帝の対普開戦後一週日なる七月二十五日、ロンドンタイムをかりてベルギーに関する一大秘報を世に暴露し、欧州外交界を驚動せしめた。すなわち過ぐる四年前の普墺の役に際し、在ベルリン仏国大使ベネデッチがビスマルクに向かって提出したというベルギーに関する仏普条約案である。

条文五カ条で、その主眼たる第二条ないし第四条を一言にして言えば、仏国はオーストリアを除ける以外の南北ドイツの連邦を承認し、プロシアはその代償として仏国がルクセムブルグをオランダより買収し、かつ必要に応じてベルギーを侵略することに援助を与うべし、というのであった。

 

この記事一たび表わるるや、普仏両国外務省は互いにその虚実を弁じ、捏造の不徳を責め、背信の責任を論じ、筆舌を極めて相争うた。

 

ナ帝はしきりにそのおのれの発意に非ざりしを弁じ、『ビスマルク氏は言えり、陛下(ナ帝)には現にドイツ領たり将来もドイツ領たるを発するライン諸州を求めらるるも、これは不可能を強ゆるものである。何故に陛下には同文同種のベルギーを併合するを提したまわざるか、陛下にしてそのお考えならば、自分はこれを援助するを辞せずと。要するにベルギー併合案を持ち出したのはプロシアで、朕はこれが返答を回避したのである』と言い、ベネデッチ自身の手記にも『当時ビスマルク氏と会談の折、予は問題の経緯を明記しおかんがため氏の口授する要領を文書にしたたむることの同意を得た。氏は国王の奏上せんとの意にて、その文書を注視した。予はまた会談の始末をパリ政府に報告したるに、皇帝には査閲後これを排斥せられた』とある。

 

しかもビスマルクは、該条約案の原文は在ベルリン仏国大使館の用紙に現にベネデッチ大使の筆跡でしたためられてあるとすっぱ抜き、しかしてタイムスは前述の如く七月二十五日の紙上において右ビスマルクとベネデッチとの会談始末、並びに該条約案を掲げ、『吾らは反証に接せざる限り、この条約案は仏国よりプロシアに提供せられたものと推断すべく、すなわちパリはこれをベルリンに申し込み、しかしてビスマルクより拒絶せられたものである』と記し、ベルギー併合案をもってナ帝の発意に出でたものと断じた。

 

事実果してナ帝の発意に出でたのか、はたビスマルクの挑発的慫慂によりしものか。

 

けだしビスマルクは英国がベルギー中立に甚大の利害を有するのを利用し、これを道具に使って英国の対仏感情を傷付け、プロシアに対する同情を嫌が上に加へしめんとの魂胆に出でたものであろうが、英国側には一般にナ帝がベルギー併合案をプロシアに持ち込んだものと解した。

 

したがってビスマルクがこれを道具に使って英仏を離艦せんとしたる新聞政策は、よしんば一時にもせよ、相当に功を奏したのである。

ビスマルクは当時も爾後も、平素内外新聞紙の論調に甚大の注意を払い、かつその操縦に苦心し、ことある場合には極力これを利用したものであるが、右の英仏離間策の如きは確かに一傑作であった。

 

それやこれやで、普仏の開戦に際し英国は厳正中立を持したのみならず、その同情を仏国よりもむしろプロシアに寄せた。

 

露国も、一は黒海の支配権を回復せんとの熱望と、一はオーストリアのばん近国内にて執れる排スラヴ政策に不快を感じたので、その反感としてただにプロシアに対し好感を有するのみならず、もしオーストリアにして仏国に加担せば直ちに墺を伐つの決心をだに示し、かつデンマークに勧めて厳正中立を宣布せしめたくらいである。

 

オーストリアとイタリアとは、仏国が当初より味方として計算した国である。

しかるにオーストリアは、一はハンガリーが固く局外中立を主張したのと、一は領内のゲルマン族の反抗を怖れるのと、また一は露国の万一の蹶起を慮りたるとで、これに応じない。

しかしてイタリーも、仏国にして勝てばイタリアがローマを手に入れてイタリア統一の大業を成就することを妨ぐるならんとの思惑から、やはり仏国の秋波に靡かない。

 

これに反しプロシア側にありては、南北ドイツ連邦はこぞってプロシアと共同して立ち、ドイツ全国民を打って一団となりて仏国に対抗する。

故にビスマルクの当初希望したる如く、英国またはスペインの仏国の背後を衝くが如きことあるを要せず。列国の厳正中立の下において優に仏国と戦うを得る好形勢であった。

鉄血宰相ビスマルク傳 17 お話にならず - 片山英一’s blog