七 刺客に襲わる
程なくビスマルクは、ある日(五月六日)の正午頃、ベルリンのウンテル デン リンデン街を歩して官邸に帰らんとする折、一期狂漢は突如彼に向かって銃を放った。二発続けて放ったが、二つとも彼の上衣を斜めに貫いたままで、幸いに無難であった。
彼はまっしぐらに狂漢に飛びついてこれを押さえた。
押さえられた狂漢はその瞬間に今一発を放ったが、空に飛んで誰にも当たらなかった。そこへ巡査が馳せつけ、すぐ狂漢を捕えた。兵士二名も飛んできて、まさに狂漢を突き殺さんとした。
ビスマルクは『殺してはいけない、生かしておきたい』と言ってこれを制止し、そのまま官邸に引き上げた。
そして幾多の来客と共に午餐の食卓に就いた。
しかも彼は談笑常の如く、今遭った奇禍について一言隻句も語らない。他方、凶報に接したるウィルヘルム老王には驚愕せられ、ただちにお見舞いとして親しくビルマルクの官邸に臨幸せられた。
その時彼ははじめて夫人にちょっと囁いた。
『今鉄砲で打たれたが、無事であった』と。
衆客は帝の突如たる臨幸にて驚き、主人のビスマルクより帝と共にはじめて遭難の次第を聞いてさらに驚き、彼の沈勇毫も色に表わさなかったにいよいよもって驚いた。
八 オーストリアの激怒、開戦、大敗
去るほどにオーストリアは、プロシアのドイツ連邦議会におけるその提案に果然反対した。
そこでビスマルクは六月十日、改めてドイツ連邦議会に向かってオーストリアを連邦外に放逐するの案を提出した。
オーストリアはその頃までは隠然ドイツ連邦の牛耳を執りきたったものである。そのオーストリアがプロシアから除名を食うというわけであるから、もとより黙して退くはずはない。
されば翌十一日、オーストリアはドイツ諸連邦に向かってプロシアに対抗する動員令を下し、墺普の和親はここに破れた。
次いで同六月十五日、プロシアはオーストリアをはじめ、ハノーヴァー、サクソン、その他オーストリア側に立てる諸連邦に対し同時に放火を開いた。しかもプロシアにはつとに深謀あり遠慮ありて、作戦上清算なく、開戦後三週間を出でざる七月三日に大いに墺軍をボヘミアのケーニッググレッツ付近のサドワ邑に破った。
この役において墺軍の死者四千八百、負傷者一万九千、捕虜二万を算した。当年の普墺戦は史上『七週間戦争』と言われてあるけれども、普軍のこの大勝により、戦局の大勢は事実三週間にて決定せられた。
九 ナ帝まんまと罠にかかる
この大勢を見たる仏帝ナポレオンは痛く驚いた。
そもそも彼は何故にビスマルクに向かって好意的中立を約したかというに、プロシアが南ドイツに勢力を伸ばさずという約束の他、てんでプロシアはオーストリアの敵にあらず、戦局はオーストリアに有利に展開すべしと信じきっておったからである。
ビスマルクの外交はこの点に向かって大いに働き、しかして大いに成功した。
彼は対墺開戦に意一たび決して以来、外に向かって新聞紙を籍り、また在外使臣に命じ、努めてプロシアの何ら野心なきことを宣伝せしめ、また作戦計画を厳に秘密に付すると同時に、内外に向かってプロシアの弱いこと、またオーストリアの倨傲不遜なることを盛んに吹聴せしめた。
ナ帝の如きはこれを真に受け、イタリアに対しては弱きプロシアを助けてやれと内々勧告した。のみならず彼は、オーストリアは結局必ず勝つに相違なしと信じたものであるから、プロシアとの国境方面には少しも動員その他の警戒を加えてなかった。
あまつさえ、一は当時メキシコ遠征の挙ありとし、また内政上に統一を欠きおりしなどの事情で、仏国には戦備がはなはな欠けておった。
されば開戦後三週間にして、墺軍が右の如くに大敗せりとの飛報パリに達するや、ナ帝は喫驚した。
プロシアは敗北すべく、少なくも戦争は長引くべしとの見込みの上に立てたる彼の外交は、これがために根底から覆された。
しかして他の一方において、七月四日すなわちサドワにおける墺軍大敗の報が達したる日、ナ帝は普王ウィルヘルムに親電を発し、普軍の迅速かつ著大なる戦勝は仏国をしてその好意的中立の態度を放棄せしむるのやむなきに至れりと記し、オーストリアに対し速やかに休戦せらるべきこと、講和条約は過当ならざるべきことなどを勧告し、ことに普軍にして墺都ウイーンに侵入すれば、その時をもって仏国はプロシアに向かって宣戦するやも知れずとの意を匂わせた。
しかして同時に、あたうべくんば普墺の講和談判に容喙し、鼻息の荒いプロシアの頭を敲いて均勢を仏国の有利に還元せしめんと種々画策に腐心した。
ナポレオンは前述の如く、普墺の戦局がかくプロシアにとりて有利に展開すべしとは予期しなかったが、とにかく普軍の大捷は仏国の中立のおかげであるという見地から、彼はその代償として若干領土の要求方をビスマルクに向かって交渉すべき旨をプロシア駐箚のベネデッチ大使に訓令した。
これはさきのビアリッツの会見の際にビスマルクがナポレオンに対しベルギーおよびルクセンブルク併合のことを慫慂したるそのことの実行方について諒解を求めたのである。
ビルマルクは当時、もはやナポレオンの好意を買うの要なしとみておったのみならず、オーストリアを破った次は仏国の番と疾く胸底で画策しておったのであるから、代償要求などは鼻先にてあしらい、ベネデッチが普軍の大本営に来たりて右訓令の意を諷促するや、彼は空とぼけして相手にせず、ベネデッチの重ねてこれを迫るや、ビスマルクはやむなくば速やかにオーストリアと講和し、普墺連合して仏国を討つべしとの意を諷答した。
ベネデッチはかく威嚇されても、その以上これを強要すべき根拠も、はた背後の実力も、まったくこれを有しなかった。
もともとナポレオンは前述の如く、普墺の戦局がかくプロシアにとりて有利に展開すべしとは予期しなかったので、プロシアに対し兵を動かす用意がない。破竹の勢いのプロシアに対し武力干渉を試みるだけの準備がない。それをビスマルクは疾く見抜いておった。またわざとナ帝をして軍の用意を怠らしむるように仕向けたのである。
ナ帝はビスマルクの罠にまんまとはまった。
さればウィルヘルム王には、ナ帝より右の親電に接するや、ビスマルクの勧奏により、一面には休戦は伊国と協議の上ならではあたはず、仏国はよろしくまずこれを伊国に申し込まるべしと答え、他の一面には伊国に対し、密かに仏国の休戦勧告を拒絶すべき旨を慫慂した。
案の定、ナ帝が程なく伊国に対し即時戦闘を休止せんことを申し込むや、伊国はビスマルクの裏からの慫慂どおりにこれを拒絶した。
欧大陸の活殺権はおのれの掌中にありしと自任しおりたるナ帝の威信は、これがためにたちまち地に堕ちた。
一〇 対墺講和の苦心
しかもビスマルクの一大苦心は、いかに迅速に対墺戦局を収拾すべくウィルヘルム王および幕僚の軍人巨頭を説伏するかにあった。
勝ち誇れるプロシア軍人は、上は元帥陛下より下は士卒に至るまで、いずれも花のウイーンに躍り込み、城下の誓いをなさしめ、広大の土地と巨額の借金を搾取せんとの鼻息がすこぶる荒い。
されど普軍にしてウイーンに入るとせば、ナ帝の武力的干渉は、仮に半ば虚喝なりとするも、あるいは実現するかも知れぬと打算し置かざるを得ない。しかるときは戦局はどうなるか。
ビスマルクはその場合における作戦上の意見をひそかにモルトケに諮った。
曰く、『仏軍にしてラインを渡り西に進むとならば、貴公はいかにするか』と。
モルトケは答えた。
『その場合には予は十万の兵をもって墺軍をエルベの戦線に牽制し、同河を境として守勢を執り、余の全力を挙げて仏軍に向かわしめる』と。
ビスマルクは外交上の見地からこれを危険と考えた。
彼はナ帝の武力的干渉の万一来たる前に是非ともオーストリアと講和の必要を認めた。
のみならずオーストリアに城下の盟をなさしめたり苛重の講和条件を課したりなどして、怨恨を同国民の心底に植え付くるが如きは断じて避けざるべからず、今日の敵たるオーストリアは、近き数年内には化してこれを我がプロシアの有力なる味方とせざるべからずとの固き信念を有した。
七月十二日、オーストリアのサーナホラ邑の普軍の大本営において最高軍事会議が開かれ、墺都進軍の方略が討議せられた。
問題は、墺都に入るにあたりてその前線のフロリッヅドルフの要塞をいかに突破すべきかにあった。
しかして、それがためには重砲の輸送および据え付けに二週間を要すとのことであった。
ビスマルクは仏軍の干渉来の虞ある今日において二週間の日子は極めて貴重で、断じて空費せしむべきに非ざること、是非とも墺都に入るの要ありとせば、フロリッヅドルフの要塞を突破する代わりに道をブレッスブルグに取りてダニウブを渡らば、敵はハンガリーに退却すべく、さすれば兵は血ぬらさずしてウイーンに侵入するを得んと述べた。王はこの方略を賛可した。
けれどもビスマルクの真意は、どの道墺都への侵入を避けしめんとするにある。のみならず、賠償も取らず領土も割かしめずして一日も速やかにオーストリアと講和せんとするにある。
爾後数日の軍事会議において、ビスマルクの意見により外交上の一進展を計るため、墺軍の希望を斟酌し七月二十七日の正午までの休戦を諾することとなった。
されどウィルヘルム王は、その間において軍人巨頭連の進言に動かされ、墺都進軍の意図をなげうたざるのみか、かえってその決心が強くなった。
七月二十三日、特にこれについて御前会議が開かれた。
席上ビスマルクは、オーストリアの提出条件を容れて即時講和をなすの外交上極めて緊切なる所以を痛論した。
(このほかに彼は、陣中コレラの猖獗をも息戦を急とする一理由に挙げた。この役、普軍にて虎疫に罹れる者六千四百二十七人とある)。
この日、議ついに決せず。その夜彼は意見の要領を文書にしたため、翌朝王に謁してその査閲を乞い、かつ涙を流して利害を説くこと数時間。
王なお解しない。
ビスマルクは慟哭し、退いて自室に入り、むしろ死して神をして諫めしめんかとまで思い詰めた。
折から人の突如だつを排して入り来たるあり、見れば王儲フリードリッヒである。
王儲はビスマルクの背を撫して曰く、『予は卿の知らるる如く初めより非戦論者である。しかるに卿は開戦を必要なりと主張した。故に責任は卿にある。けれども卿にして今既に交戦の目的は達せられ、講和を急と認むるに至りたりとせば、予は卿の味方となり、今より卿のために父王の室に往いて力説来たるべし』と。
かく言って太子は父の室に馳せた。
やがて小一時間も経った頃、ビスマルクの部屋に戻り、『すこぶる困難であったが、ようやく父を説得せしめた』と告げ、その朝提出の意見書の欄外に王の鉛筆にて走り書きしたものをもたらし来たってこれを彼に渡した。
見れば『朕は宰相が敵を目前に控えて朕を窮地に陥れたるを顧念し、せがれと凝議したるに、せがれもし宰相と同意見なるをもって、朕は朕の軍の赫々たる功績を前にして心ならずもこの酸ぱき林檎をかじり、屈辱的講和に甘んずるのやむなきを認む』とある。ビスマルクの深慮の意見は、かくの如くにしてようやく貫徹した。
普墺戦争は『七週間戦争』と称されているが、事実戦闘は五週間と三日にて終わり、しかも大勢は既に三週間にて決し、七月二十六日ニコルスブルグにおいて普墺の間に講和予備条約成り、翌八月二三日プラーグ条約にて平和克復し、これにより当時五十年前なる一八一五年に改造のドイツ連邦はさらに再改造となり、すなわちプロシアはオーストリアをドイツ連邦外に駆逐し去り、ハノーヴァー、ヘッセ、ナッサウなどは挙げてこれをプロシアに併合し、普はこれにより北ドイツ連邦中の八分の七を領有する大国となった。のみならず普はさらに南ドイツ連邦に交渉し、挙げてこれをプロシアとの同盟に編入した。
オーストリアはヴェニスをイタリアに割譲するのやむなきに至ったが、しかも幸いにしてビスマルクの国王への職を賭しての諫奏および軍人に対する抑圧の庇蔭により、他に一寸の地をだに失わずして平和を回復した。
普墺の講和条件に対しナ帝がいかに干渉を試みんとし、ビスマルクがいかにその駐仏大使フォン デル ゴルツをしてこれに翻弄せしめ、結局帝を半騙かしに騙してその干渉を食い止めたるかの経緯は、余りに繁であるから今略する。