lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説連載】刑事堀部(32)~終戦 その5

再び8月13日。

北海道へ向かう連絡船の中、正美は焦った。慌てて船員らに事情を説明し、妙子を医務室へ運んでもらう。

正美は嘘をつき、彼女は濡れた階段で足を滑らせ落ちた、と説明した。船員によると、妙子は気を失ってはいるが、大事には至らなそうである。正美はほっとした。同時に不安にもなる。

目が覚めたら、何て言われるだろう。

彼女は冷静になろうと、また誰もいない甲板に出て風を浴びた。

「ふう」

一息吐き、ポケットから煙草を取り出す。あいにく火がなかった。彼女は舌打ちした。そこへ、

「松本先輩」後ろから声がした。正美はどきっとして振り返ったが、相手を見て安心した。

いたのはサエだった。サエは正美の横に立ち、

「火ならありますよ」

マッチを1本すった。

「ありがとう。気が利くのね」

煙を吐いたら、正美は少し落ち着いた。

「あなたも吸うの?」

「いえ」

「そうよね。あなたはそんな女じゃなさそうだわ」

正美は吸い終わった煙草をちゅうちょなく、海へ捨てた。

「それにしても嫌になるわね」

「何がです?」

「戦争よ、戦争。いつになれば終わるのかしら」

戦争さえなければ、今日船に乗ったり、今まで苦労したりすることもなかった。正美はそう思った。

「戦争は外国とするものです。こちらの事情だけでは決められません」

このサエの答えに、正美はちょっといらついた。

「事情って?」

「人には戦わなければいけないときもあります。そうして始めた戦争を辛くなったら間違いだったなんて、都合良すぎませんか?」

「あなた、結構怖いこと考えるのね」

正美はまた、2本目の煙草を吸おうとし、サエから火をもらった。正美の手が震えている。

「怖いですか?」

「ええ怖いわよ。あなた怖くないの?」

「怖いです」

「だったら私と一緒じゃない。強がらないでよ」

「でも、私は」

ここでサエはマッチを1本すった。火を眺め、それが消えると、燃えかすを海に捨てた。

「私は、あなたとは違う」

「はあ?」

「私は、あなたのようにおびえたりしない」

「ちょっと、どういう意味?」

正美はいら立った。背中では薄ら寒いものを感じていた。

「もういいわ。火はありがとう」そう言って、サエが離れるのを促す。サエは黙って立ったままだ。

「先輩」

「何よ?」

「私、知ってますよ」

「何を?」

「先輩ですよね、小野田先輩を突き落としたのは」

正美の黒目がぶるっと揺れた。手の震えが一段と増した。

「馬鹿なこと言わないで。どうして私が」

「だって先輩言ったじゃないですか。小野田先輩は濡れた階段で足を滑らせたんだって。私もさっき同じ階段を上りましたけど、全然滑りませんでしたよ」

「たまたまでしょ。妙子は確かに滑ったのよ」

「先輩に突き落とされてですよね?」

「いい加減にして!」

正美は妙子の胸ぐらをつかんだ。

「調子に乗るなよ。ちょっと優しくしたらつけあがりやがって」

「先輩はずるい」

胸ぐらをつかまれたサエは顎が上がり、かえって正美を見下ろすようだった。

「ふざけないで、私の何がずるいのよ!」

「人を苦しめておいて、適当に謝って、それで終わりだなんて」

「それは、あなたも許すって言ったじゃない!」

「私、許すなんて一言も言ってません」

サエは正美の手首をつかんだ。

「スミレさんも、小野田先輩もちゃんと謝ってくれました。でも、あの2人はそれだけじゃない、世間の制裁もしっかり受けた。あなただけ、ずるいじゃないですか」

正美は生まれて初めて、年下の女に戦慄した。

「あなたも受けるべきだ」

こう言うと、サエは正美の首に手を伸ばし、力の限り締め始めた。

「う……」

正美は苦しそうな声を漏らした。

「助けて……」

「駄目。あなたは、私が自分の手でやらないと。安心して。殺したりしません。少しの間、苦しんでもらえればいいんです」

サエはこう約束したが、正美には信じられなかった。

殺される……。真剣にそう恐れた。

「サエさん!」

正美の耳に飛び込んだのは、スミレの大声だった。

「サエさん、あなた何してるの!」

彼女は慌てて2人に駆け寄ってくる。

助かった……。正美は安堵で気が抜けた。首を絞めるサエの手が緩み、正美はへたり込んだ。

「しっかりして正美さん……サエさん、どうしてこんなことを」

「違う、私は……」

「な、何が違うのよ」

正美はまだ喉を苦しそうにしながら、言わずにおけなかった。

「あ、頭がおかしいんじゃない」

「本当なの?」

「ち、違う……」

動揺を見せたサエに、スミレは優しく話した。

「何か訳があるのよね。しっかり話して……」

……あれ?

このとき、スミレの脳裏にある一瞬の光景が蘇った。

それは日も暮れた時刻。夕日が差した部屋で、「しっかりして、話せる?」と、なぜかみよ子が聞いてくるのだ。

一方、船ではサエが「違う」大きく首を振った。しかし正美が「違くないわよ、この人殺し!」

こう非難した後だ。

「いやああ!」

甲板にスミレの絶叫が響いた。

サエも正美も突然すぎて体が止まってしまい、けれどすぐ、心配と不安で身震いした。

あの上品で気位も高いスミレが苦しそうに頭を押さえ、あられもない声を上げているのだ。

2人はスミレに呼び掛けようとした。

呼び掛ける寸前、スミレはとっくに駆けていた。うつむいて首を振りながら、彼女の目には濁った涙が浮かんでいる。

「う、う」

船室へ下りる階段へ走り、途中1人の船員とぶつかった。

「ご、ごめんなさい」

「こっちこそごめんよ。大丈夫? 君、泣いているけど、どこかけがしてるんじゃ」

「な、何でもありません。失礼します」

スミレはすぐ行こうとした。

「ちょっと君」と、船員に呼び止められる。

「さっき、船首で大声が聞こえたんだけど、何か知ってるかい?」

この瞬間、スミレはすべてを理解した。

知ってる……。

「いや、いやあ!」

スミレはまた絶叫し、今度は船尾に駆けだした。船員に呼び止められても振り向かず、あっという間にへりまで来た。

「あ、ああ……」

スミレは全部思い出したのだ。

あの日である。

木下則子は後ろからスミレの肩に手を乗せていた。すると突然、彼女は首にひもを巻き付け、絞め始めたのだ。スミレは何が起こったか訳も分からず、息もできなかった。それでもどうにか、テーブルの灰皿に手を伸ばすと、則子の頭を殴ったのである。

「はあ、はあ……」

こうなる直前まで、スミレは則子を信じていた。

「それにしても、あなたやっぱり知ってるようね。源造も脇が甘いわ」

こう言われてすぐ、彼女の信頼は崩壊した。

少しして、

「校長先生、入ってもよろしいですか?」

みよ子がやってきて、

「何があったの、しっかりして、話せる?」

「……ソ連

ソ連?」

 

そうして今、忘れていたことを思い出したスミレは気持ち悪さで嗚咽した。

彼女のこれまでの日々は偽りだった。

現実とは別の夢を見ていたのだ。

なら、今覚えていることだって、偽りかもしれない。

彼女は船尾の手すりを乗り越えた。

「スミレさん!」

背後でサエの声がした。彼女は一度くらい振り返ろうかと迷いもしたが、やめることにした。

間もなく、彼女は海に飛び込んだ。

それから2日後……。

 

最終話