再び8月13日。
北海道へ向かう連絡船の中、正美は焦った。慌てて船員らに事情を説明し、妙子を医務室へ運んでもらう。
正美は嘘をつき、彼女は濡れた階段で足を滑らせ落ちた、と説明した。船員によると、妙子は気を失ってはいるが、大事には至らなそうである。正美はほっとした。同時に不安にもなる。
目が覚めたら、何て言われるだろう。
彼女は冷静になろうと、また誰もいない甲板に出て風を浴びた。
「ふう」
一息吐き、ポケットから煙草を取り出す。あいにく火がなかった。彼女は舌打ちした。そこへ、
「松本先輩」後ろから声がした。正美はどきっとして振り返ったが、相手を見て安心した。
いたのはサエだった。サエは正美の横に立ち、
「火ならありますよ」
マッチを1本すった。
「ありがとう。気が利くのね」
煙を吐いたら、正美は少し落ち着いた。
「あなたも吸うの?」
「いえ」
「そうよね。あなたはそんな女じゃなさそうだわ」
正美は吸い終わった煙草をちゅうちょなく、海へ捨てた。
「それにしても嫌になるわね」
「何がです?」
「戦争よ、戦争。いつになれば終わるのかしら」
戦争さえなければ、今日船に乗ったり、今まで苦労したりすることもなかった。正美はそう思った。
「戦争は外国とするものです。こちらの事情だけでは決められません」
このサエの答えに、正美はちょっといらついた。
「事情って?」
「人には戦わなければいけないときもあります。そうして始めた戦争を辛くなったら間違いだったなんて、都合良すぎませんか?」
「あなた、結構怖いこと考えるのね」
正美はまた、2本目の煙草を吸おうとし、サエから火をもらった。正美の手が震えている。
「怖いですか?」
「ええ怖いわよ。あなた怖くないの?」
「怖いです」
「だったら私と一緒じゃない。強がらないでよ」
「でも、私は」
ここでサエはマッチを1本すった。火を眺め、それが消えると、燃えかすを海に捨てた。
「私は、あなたとは違う」
「はあ?」
「私は、あなたのようにおびえたりしない」
「ちょっと、どういう意味?」
正美はいら立った。背中では薄ら寒いものを感じていた。
「もういいわ。火はありがとう」そう言って、サエが離れるのを促す。サエは黙って立ったままだ。
「先輩」
「何よ?」
「私、知ってますよ」
「何を?」
「先輩ですよね、小野田先輩を突き落としたのは」
正美の黒目がぶるっと揺れた。手の震えが一段と増した。
「馬鹿なこと言わないで。どうして私が」
「だって先輩言ったじゃないですか。小野田先輩は濡れた階段で足を滑らせたんだって。私もさっき同じ階段を上りましたけど、全然滑りませんでしたよ」
「たまたまでしょ。妙子は確かに滑ったのよ」
「先輩に突き落とされてですよね?」
「いい加減にして!」
正美は妙子の胸ぐらをつかんだ。
「調子に乗るなよ。ちょっと優しくしたらつけあがりやがって」
「先輩はずるい」
胸ぐらをつかまれたサエは顎が上がり、かえって正美を見下ろすようだった。
「ふざけないで、私の何がずるいのよ!」
「人を苦しめておいて、適当に謝って、それで終わりだなんて」
「それは、あなたも許すって言ったじゃない!」
「私、許すなんて一言も言ってません」
サエは正美の手首をつかんだ。
「スミレさんも、小野田先輩もちゃんと謝ってくれました。でも、あの2人はそれだけじゃない、世間の制裁もしっかり受けた。あなただけ、ずるいじゃないですか」
正美は生まれて初めて、年下の女に戦慄した。
「あなたも受けるべきだ」
こう言うと、サエは正美の首に手を伸ばし、力の限り締め始めた。
「う……」
正美は苦しそうな声を漏らした。
「助けて……」
「駄目。あなたは、私が自分の手でやらないと。安心して。殺したりしません。少しの間、苦しんでもらえればいいんです」
サエはこう約束したが、正美には信じられなかった。
殺される……。真剣にそう恐れた。
「サエさん!」
正美の耳に飛び込んだのは、スミレの大声だった。
「サエさん、あなた何してるの!」
彼女は慌てて2人に駆け寄ってくる。
助かった……。正美は安堵で気が抜けた。首を絞めるサエの手が緩み、正美はへたり込んだ。
「しっかりして正美さん……サエさん、どうしてこんなことを」
「違う、私は……」
「な、何が違うのよ」
正美はまだ喉を苦しそうにしながら、言わずにおけなかった。
「あ、頭がおかしいんじゃない」
「本当なの?」
「ち、違う……」
動揺を見せたサエに、スミレは優しく話した。
「何か訳があるのよね。しっかり話して……」
……あれ?
このとき、スミレの脳裏にある一瞬の光景が蘇った。
それは日も暮れた時刻。夕日が差した部屋で、「しっかりして、話せる?」と、なぜかみよ子が聞いてくるのだ。
一方、船ではサエが「違う」大きく首を振った。しかし正美が「違くないわよ、この人殺し!」
こう非難した後だ。
「いやああ!」
甲板にスミレの絶叫が響いた。
サエも正美も突然すぎて体が止まってしまい、けれどすぐ、心配と不安で身震いした。
あの上品で気位も高いスミレが苦しそうに頭を押さえ、あられもない声を上げているのだ。
2人はスミレに呼び掛けようとした。
呼び掛ける寸前、スミレはとっくに駆けていた。うつむいて首を振りながら、彼女の目には濁った涙が浮かんでいる。
「う、う」
船室へ下りる階段へ走り、途中1人の船員とぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
「こっちこそごめんよ。大丈夫? 君、泣いているけど、どこかけがしてるんじゃ」
「な、何でもありません。失礼します」
スミレはすぐ行こうとした。
「ちょっと君」と、船員に呼び止められる。
「さっき、船首で大声が聞こえたんだけど、何か知ってるかい?」
この瞬間、スミレはすべてを理解した。
知ってる……。
「いや、いやあ!」
スミレはまた絶叫し、今度は船尾に駆けだした。船員に呼び止められても振り向かず、あっという間にへりまで来た。
「あ、ああ……」
スミレは全部思い出したのだ。
あの日である。
木下則子は後ろからスミレの肩に手を乗せていた。すると突然、彼女は首にひもを巻き付け、絞め始めたのだ。スミレは何が起こったか訳も分からず、息もできなかった。それでもどうにか、テーブルの灰皿に手を伸ばすと、則子の頭を殴ったのである。
「はあ、はあ……」
こうなる直前まで、スミレは則子を信じていた。
「それにしても、あなたやっぱり知ってるようね。源造も脇が甘いわ」
こう言われてすぐ、彼女の信頼は崩壊した。
少しして、
「校長先生、入ってもよろしいですか?」
みよ子がやってきて、
「何があったの、しっかりして、話せる?」
「……ソ連」
「ソ連?」
そうして今、忘れていたことを思い出したスミレは気持ち悪さで嗚咽した。
彼女のこれまでの日々は偽りだった。
現実とは別の夢を見ていたのだ。
なら、今覚えていることだって、偽りかもしれない。
彼女は船尾の手すりを乗り越えた。
「スミレさん!」
背後でサエの声がした。彼女は一度くらい振り返ろうかと迷いもしたが、やめることにした。
間もなく、彼女は海に飛び込んだ。
それから2日後……。