lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 2 制御し難き放縦の一書生

 

三 幼児の教育

 

オット ビスマルクは兄妹姉妹合わせて六人で、おのれは第四男である。

父は彼が二歳のとき、ポメラニア州のクニホフ村に移りて質素に暮らしたので、彼も幼少にして質朴なる生活の感化を受けた。

 

そして七歳のおり、父に伴われてベルリンに行き、ブラマンという学者の私塾に入った。この私塾はスパルタ式にのっとれる粗食苦役の極めて厳酷な教育法で、少年の彼は随分泣いたこともあったそうだ。彼はここにおること五年にして、さらにグラウエ・クロスター中学校に進んだ。

中学校にては学業概して優等で、殊にラテン語は秀逸であった。彼が後年よく文書に簡潔なラテン語を抄用したのは、その時代の修行の結果であろう。

 

かくして彼は一八三二年、十七歳にして中学校を終えたが、彼は幼少より強情のわんぱく者で、家庭にありてもいずれかといえば愛薄く、彼も父以外にはほとんど畏敬を表せず、家にありても近所に出でてもいわば孤立の姿で、それが自然彼を何ほどか偏屈の拗ね者に化せしめしがいもあった。

 

彼は中学校卒業の前後、信仰にはすこぶる懐疑的となり、また無政府主義の思想をも多少抱き、また時には共和政治を謳歌する語気も洩らしたことあるが、それはいずれも愛の不足という環境から自然世間に曲視した結果でもあったのであろう。

 

彼が中学校を卒業するや、父はある縁故から彼に神学を修めしめ、宣教師に育て上げんと欲し、母はこれに反して彼をゆくゆく外交官にせしめんと願った。が、ともに大学を選ぶについてゲッチンゲル大学の校風を賛し、同大学にはいることとなった。

そして母の希望が勝ちを制したものか、彼は法学部の学生となった。

   

四 乱暴大学生の一領袖

 

大学生たる彼は、入学後三カ月ならざるには乱暴学生の標本とまででなかったにしても、その領袖株の一人となった。

学友おおむねそうであったが、彼もまた学業よりもビールを好み、酔えば争い、争えば好んで決闘をやりだすという風で、現に在校中決闘すること二十八回、顔面には終生の傷痕を留めた。その乱暴には、舎監は毎度手古摺った。

彼は酔余ビール瓶を窓外に投げたり、煙草をふかしつつ街道を歩したりして校則に触れ、校内の罰金を課せられたり禁足を命ぜられたりしたことが再三あった。

けれども他の一面において、彼の熱誠と仁侠とはよく学友を引き付け、よく彼らを心服せしめた。したがって彼の交遊も広かった。

 

五 相親しき学友

 

殊に彼は、刎頸に交わりを訂せる二人の親友を得た。

一は米国からの留学生モットレー、他の一は露領クルランドから来たカイゼルリング伯である。

 

モットレーは年少より学才ありて、後年有数の歴史家となり、また駐墺次いでは駐英の米国公使となって外交界にも名を馳せた。けれどもモットレーの人となりについてビスマルクの後年人に語りしところのものに、『彼はすこぶる理想に耽り、高尚の性格を有し、極めて神経質の体質で酒を二三杯飲むと急に快活になるが、間もなく椅子にもたれ、手を背にして学窓時代の愛誦の詩を低吟するを常とす』とあれば、溌剌たる外交家というよりも真摯の学者肌の人であったらしい。

ビスマルクは在校中一時汎神論を信じ、ついには共和国体論者とまでなったこともあるが、その極端までは走らず、思想の中庸を得るに至ったのは、一はモットレーと交友熱く、その感化を受けた関係もある。

 

カイゼリングは後年物理学者として聞こえ、一時官界に立ちしこもあるも、多くは研究室内に身を送った。

この二人は共にビスマルクよりも年長であり、思慮に富める摯實の徒であったので、ビスマルクも自然これに兄事し、彼らによっておのれの足らずと感じたる克己自制の精神を養い、ついに終生相許せる肺腑の友となった。

 

彼の学友中には、その他になお一米人があった。コッフインといえる者で、ビスマルクはある時彼とドイツ連邦の将来を論じ、今から二十年を出でずして連邦は必然統一せらるべしと断じたるに対し、コッフインは不可能を主張したので、賭けをすることになり、負けた者はシャンパン二十本と大西洋を渡る旅費を支払うことという約束をした。

しかるに二十年目の一八五三年にドイツの統一はいまだ成らなかった。

後年ビスマルクはそれを想起し、急に債務を勝者に支払わんと思い立って当年の旧友の消息を訪ねてみたところ、コッフインは既に他界しておったので、彼はすこぶる残念に思った。

名がコッフインだから早く棺に入ったのか(編者注 棺は英語でcoffin)。

そんな洒落をビスマルクが言ったかどうかは知らない。

 

六 制御し難き放縦の一書生

 

ビスマルクは学友の輿望はあったが、教職員からは確かに嫌われ者であった。

彼はゲッチンゲン在学一年有半となれる頃、過去の放縦の愚かなりしを悟り、今少し法律の研究に精励すべく決心し、一八三三年に親友のモットレーと共に去ってベルリン大学に転学した。

その転校に際し、ゲッチンゲン大学の教職員中には一人も彼の去るのを愛惜した者が無かったとある。

のみならず、彼は転校の当時、たまたま決闘に関して前大学の校則に問われ、禁足三日の宣告を受けたが、彼は服罪してベルリン行きを届け出たので、ゲッチンゲン大学の学長は処罰をベルリン大学にて移管執行せしむることを改めて彼に宣告したるほどで、ゲッチンゲンにては彼の去るのをむしろ厄介者を追っ払うくらいに喜んだほうである。

 

彼はかく大学において法学の修習に志したのであるが、果たしていくばくの研究を遂げ得たかは疑問である。

同大学の誇りの一は当年の法学の泰斗サヴイニー教授であったが、ビスマルクが同教授の講義に出席したのは在校中二回を出でざりしとあるが如き、もってその一斑がわかる。

けれども彼は、地理歴史殊にギリシア・ローマ史と英国史、並びに外国語には多大の趣味を感じたらしい。

 

彼は学校生活時代に『予はドイツの地図を展観すると、そこに一種言うべからざる感がする』と友に語ったことあるが、彼の後年の大業は、その少年時代に既に一道の暗示を得たものであろう。

彼は英仏両語においてほとんど母語同様に上達した。しかも英語は、後年英人と語る場合には常にこれを用いたが、仏語はこれをよく語り得るにかかわらず、万やむを得ざる場合の他はこれを用いなかった。

ただ学校時代の彼として目立ったのは、彼が多数学生の如くに決して試験勉強をしなかったことである。

 

優等で卒業するとか学位を貰うとかの考えは、全く彼の眼中になかった。

要するに彼は、孜々学業に励む温良の学徒ではなく、むしろ制御し難き放縦の一書生であった。

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