lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 6 墺太利の関税同盟加入の希望を排斥す

 

五 墺太利の関税同盟加入の希望を排斥す

 

ドイツ関税同盟なるものはもと一八二八年にプロシアとヘッセ公国との間に協定せられたのを嚆矢とし、一八三四年に他の連邦若干これに加わり、漸次膨大してついには墺太利他二三を除く他の連邦大部分を挙げてその傘下に拉致するに至った。

しかるに一八五二年、ビスマルクが連邦衆議会にプロシア代表であった折、墺太利は右の関税同盟に加入方の希望を表したるに、ビスマルク墺太利の加入は政治的覇権に加うるに関税問題に関する重要の発言権を同国に与えるに至るべしとの見地から強くこれに反対し、プロシア政府はかれの意見を容れ、墺太利政府に向かってその加入を歓迎せざる旨を答えた。

 

当時墺帝フランツ ヨセフは、仏帝ルイ ナポレオンの欧州平和攪乱の非とに共同対抗すべくプロシアとの親交を固く把握し置かんとの考えがあり、露帝も墺普提携の要を墺帝に力説するところあったので、墺太利は関税同盟加入の希望をプロシアが拒絶したことに対しても、あえてそれ以上強要するところなく、翌五三年、墺太利は関税同盟加入諸連邦との間に特恵的通商条約を締結することにおいて満足した。

もっともその際、向後六カ年の終わりにおいてさらに墺太利の関税同盟加入問題を商議するところあるべしとの了解はあったが、とにかく墺太利の当年の希望を撃退したのはビスマルクの献策に出でたものである。

   

その後一八六二年、仏帝ナポレオン三世は英国との間に自由貿易主義の通商条約を取り結んだ折、プロシアおよび他のドイツ関税同盟加入連邦に向かって同様の通商条約を締結せんと試みた。

しかるに当時保護政策を執りつつありし墺太利は、しかる場合には自国をしてもはやドイツ関税同盟への加入を不可能たるに到らしむべしとの考えから、強くこれに反対したが、プロシアはこの反対に介せず、他の同盟諸連邦と共に仏国との間に通商条約を締結し(一八六二年八月二日)、次いで同様の条約をベルギーとの間にも取り結び、かくして墺太利を永遠に関税同盟から遠ざけてしまった。

その実際上の経済的利害はしばらく別論とし、墺太利プロシア他ドイツ諸連邦に対する威権のこれによりて傷つけられたことは論を待たない。

 

ビスマルクはこれにより墺太利の覇位を根底から挫きると同時に、プロシアの連邦内において牛耳を取るの基礎的工事を築き上げた。

 

六 パリに遊びナ帝と意見交換

 

この間にありてビスマルクは、その連邦衆議会代議員の職にあるの日、一八五五年の春、パリに往いてナポレオン三世帝に謁し、欧州の時局について意見を交換するところあった。

これより先その前年の三月、露国と仏英土三国との国交関係は緊張し、ついにクリミア戦争となれるが、当時露国のバルカン進出を憂惧する墺太利を仏英側に加担せんとするの風ありて、その間に処する向背いかんはプロシア政府の問題となった。しかるにプロシアの国論はやはり仏英側に起って露国と一戦すべしというに傾き、ただ保守派の面々およびゲルラッハ将軍の一派のみはこれに反対した。

 

王太子ウィルヘルムは親しくビスマルクの意見を徴せんと欲し、フランクフルト出張の彼に一時帰京の命を伝えた。

 

ビスマルクは急速ベルリンに帰り、王太子に謁するや、太子曰く、『今や廟議二つに別れてある、一は首相マントイフェルの代表する対露開戦論で、他の一はゲルラッハ将軍および在露都公使ミユンスター一派の主張する親露説である。大勢は卿の意見次第で和戦いずれにも決すべし。知らず卿の所見いかん』と。

ビスマルクは露国を敵とするの最も不可なる所以を忌憚なく陳べた。

 

当時王太子は、露帝に対してむしろ厚き友情を抱いていたけれども、ひとたび帝を脅かして置くことの利あるを認めて主戦説に賛し、ビスマルクからも同様の献策あるべきを予期したるに、彼からは非戦論の率直なる意見開陳あったので意外に思ったが、結局、王太子も彼の意見を納得し、ついに国策を誤らしめざるを得た。

 

これらの関係で、ビスマルクは、欧州政局の前途について国外の当局者と相会して親しく意見を交換するの利あるべきを感じ、翌五五年の初め、一私人としてパリに漫遊し、ナ帝に謁して時局を語り、充分の収穫をもたらしてベルリンに帰った。

 

彼はその後も一再仏国に遊んで帝と歓談を重ぬるの機会を得た。彼の後年の外交政策は、いずれもその収穫から割り出したる結果に他ならない。

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