lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 18 普王、ドイツ皇帝の冠を戴く

 

一一 講和漸くにして成る

 

戦局はパリの開城とともに大段落を告げた。まず二月二十六日正午を限りとする休戦の約成り、四月二十一日、ビスマルクは仏国全権チェールと相会してこれに講和条件を提出した。ようはアルサス・ローレンス二州の割譲と賞金六十億フランの要求である。

 

割地については、ビスマルクは当初意これに傾かなかった。割地を要求するにしても、これをアルサス――二百年前に仏帝ルイ十四世がドイツより奪取したる――のみに止めしめんとするの考えであった。

事実仏国がもしセダンの役後直ちに講和を請うたならば、割地はけだしアルサス一州のみにて済んだかと思わるる理由もある。

 

同州の首都ストラスブルグはラインの上流に位し、仏国よりドイツに入る最重要の関門である。仏国にしてこの関門をその手に握る限り、ドイツは軍をここから進めらるる虞があり、しかしてドイツはこれに対して防御の道が困難である。

ゆえにドイツがこの関門を己の手に収めんとすることは、その防御上よりして必然の要求である。けれどもローレンスに至りては、殊にそのメッツは、モーゼル河以東に位し、ドイツとしてはむしろ兵を仏境内に進むる上において攻勢上からみたる必要地たるに過ぎない。

   

けれどもモルトケ将軍は両州を軍事的見地からともに必要とし、殊にメッツは独軍の十二万に値する要害の地なりと主張した。

 

ビスマルクがアルサスとともにローレンスを要求し、仏国をしてついにこれを割譲せしめたのは、主としてモルトケ将軍の意見を尊重した結果である。けれども彼は、両州をプロシア領とすることはドイツ諸連邦間の嫉視紛争の種となる懸念ありとて強くこれに反対し、その結果両州はいずれの連邦にも専属せざる帝国領土ということに後日定まったのである。

 

仏国全権は右要求を苛重なりとて、その軽減方を強く要望し、その折衝に四日間を費やしたる末、償金は五十億フランにて折り合い、二十五日妥協ことごとく成り、翌日即ち二月二十六日仮条約の調印を了し、五月十日フランクフォルトにおいて確定講和条約が成立した。

 

そのここに至るまでの一百日間にわたる談判場の表裏、仏国当局委員の愛国的衷情の披歴、仏国の政情の大変転、ビスマルクの寛厳交々遣い分けの態度、最後の確定条約の幾たびか破れんとして漸く成るに至れるその間における双方責任者の苦心など、詳らかに叙すればそれのみにても一巻の書を成して余りある。今は煩を避けて略するとし、ただ面白い一事を記するにとどめる。

 

そは、談判の行き詰まりて容易に纏まらず、相手のチェールおよびファーヴルは相変わらず演説口調で滔々と論じ立てて際限がない。

ビスマルクは溜まりかね、これを遮りおもむろに曰く、『予は貴公等の雄弁には仏語にて対抗するを得ない、よって予は我が語にて答える』と。(仏語は彼堪能で、談判は初めから仏語でやってきたのである。)かく云って彼は、今度はドイツ語で逐一相手の所論を駁し始めた。

相手は充分に理解しない。

チェールは黙々たり、ファーヴルは起って窓外を眺むるのみ。

   

やがてチェールは紙片に何かを書き下し、これをビスマルクに示し、単に『閣下の意はここにあるか』と問ふた。見れば、ビスマルクの要求しかつ固く主張する講和条件の箇条書である。ビスマルクは、今度は仏語にて『正にこの通り』と答えた。しかしてその以上弁難なく、談判はそのまま妥結となったのである。

 

仏国の国民議会は、涙を呑んで右の講和条約を五月十八日をもって批准し、次いでドイツの出征軍は、六月十六日軍容堂々とベルリンに凱旋した。

 

初めビスマルクは、講和条約の成立とともに即時撤兵に着手すべく、遅くも五月中に仏国内よりドイツ軍を全部引き上げしむべしとの意見であったが、折からバーデン・バーデンに養病中なりし皇后アウグスタには、おのれも是非親しく凱旋式を見たいが、六月中旬まではベルリンに還御し難いから、凱旋をその頃にして欲しいという希望で、ウィルヘルム帝もこれに動かされ、理由を他に借りて撤兵の数週日お延期をビスマルクに求められた。

ビスマルクは撤兵は一日も速やかなるを要すと一再力諫したが、ついに叡意に黙従するのやみなきに至った。

 

老帝が我意を張られ、自分これに屈したのはこの時ばかりとビスマルクの自叙伝に面白く書いてあるから、些事ではあるがこれを書き添えておく。

 

十二 普王ドイツ皇帝の冠を戴く

 

これより先普仏講和条約の調印に先立つ同年一月十八日、即ちパリの未だ陥落せず、ドイツの大砲が日夜パリ城外に轟きつつありし間において、プロシア国王ウィルヘルムはパリ郊外ウェルサイユ宮の『鏡の間』、即ち爾後四十八年を経、ドイツが力尽して連合余国より講和条件を突きつけられたるその同じ大ホールにおいて、ドイツ諸連邦の君主の賛薦の前に、北ドイツ連邦議長の地位より進んで新たにドイツ皇帝の冠を戴き、これとともにドイツ帝国は新たに成った。

 

ウィルヘルムはこの帝冠を戴くについて、ドイツ連邦の二三の君主の思惑に顧念し、当初はすこぶる躊躇したけれども、ビスマルクは、北ドイツ連邦を拡張して一帝国を建設することはドイツの統一および中央集権のために絶対必要なりとの見地から、ひそかに不機嫌の連邦君主を説き、異議を未然に防圧してついにウィルヘルムを納得せしめたのである。

 

十三 議会における講和報告演説

 

同七一年五月十二日のドイツ帝国議会は、ビスマルクの講和報告演説があるというので、定刻前より議場も傍聴席も立錐の地なく、未曽有の緊張と好奇的気分がみなぎった。

 

やがて彼は満場の歓呼喝采に迎えられて登壇し、講和始末の要領を述べ、最後に『この講和は正当なる条件の上に築かれた講和である。予はこれにより恒久の平和が樹立せられんことを期待する。また仏国政府において条約の規定の実行するの力を有せんことを予は希望する』と結んで降壇するや、議場は再び割れんばかりの大拍手、大喝采をもってこれに應呼し、進んで彼の席に至りて握手を求め祝福を呈する議員引きも切らず。

 

この日の彼は、議院においてまさに凱旋将軍たるの俤があった。

鉄血宰相ビスマルク傳 19 新帝国建設後の対外経綸 - 片山英一’s blog