lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 7 露~パリに転任

 

第三章 遣外使臣から宰相へ

 

一 露都に出使す

 

ビスマルクはフランクフルトに在任するの間において、宮廷より時々国務上の諮詢に接し、ベルリンとの間を往復すること何十回なるを知らず、その間には入閣の内旨もあった。けれどもウィルヘルム四世王の下にありては到底驥足を伸ばすの見込みなしとみたる彼はこれを固辞して受けなかった。

 

そのうちに王の精神病はますます昂進し、国務を親裁するあたはざるに至ったので、一八五八年、王弟ウィルヘルム(すなわち後の老帝ウィルヘルム一世)は摂政となった。摂政はビスマルクにみるところあり、翌五九年彼を露国駐箚の公使に任じた。

ビスマルク自身はこの任命をば『おのれの排墺熱を摂政が心配してしばらく氷の上に置くを得策と認めた結果ならん』とみた。

とにかく彼は過去七年の連邦衆議会におけるプロシア国代議員から、ここに一転して外交家の新生活に入ることとなった。

 

かつては学窓を出でて外交官に志し、しかも外務当局者より採用さられざりし彼は、二四年を経てはじめて在外使臣たるの目的を達したのである。時に彼四四歳。

   

彼は露都にありて宮廷および官民より大いに好感をもって遇せられ、彼もまた露国を善くかつ正しく見た。彼は公務の傍らに露語を学び、露人と酒を飲み、露人と熊狩りをし、交友は広くなり、露国が大いに好きになった。

かつては英国の駐露大使たりしダッフェリン卿は『露国人を全体として見れば、およそ世界に露国人ほど善い国民は他にない。もちろん例外はあるも、総じてこれをいえば、露国人は誠実かつ人好きの点において予の知れる外国人中に冠たるものである。露国人は外国人を信任するに遅緩であるが、ひとたび信ぜばこれに終生の信任を捧げて余さず』と言ったことがあるが、ビスマルクも露国人をほぼ同様にみた。

 

ことに彼は露国の農民を愛敬し、彼らは真に紳士の素質を有するとまで激賞したことがある。これは彼が多年露国の朝野の人々と交わってしかく認めた観察であろうが、その元は彼が駐露公使の在任中に得たる好印象であった。

ただこの間における彼の悩みは、脚部の病気であった。

 

彼が露都に赴任してから間もなきある日、乗馬の運動を終えた直後に左足に疼痛を感じた。

早速医を迎え、膏薬を幹部に貼付したが、深夜激痛耐え難かったので、彼はその膏薬を取り剥がした。そして翌朝になってみると、血管が腐りかけている。直ちに別の医を迎えて診断を求むると、これは大患で、脚を膝関節の上から切断せねば一命に関わるとのことだ。

彼にして当時一脚を切断してしまったならば、後年のあれだけの大業を成し遂ぐることは、よしんば全然不可能でなかっとするも、かなり困難となったに相違あるまい。

 

彼は医の診断を斥け、切断を肯ぜず、すぐ露都を一時辞して海路ドイツに帰り、治療に取り掛かった。幸いにして経過良好であったので、彼は療養を半ばにして露都に帰任した。しかるに帰任すると程なく、壊血の粘塊はこう上して肺部の閉塞を引き起こし、容態危険となり、医師は一時さじを投げ、患者は遺言状を書きかける始末となった。

されど天は前途ある偉人を捨てず、数日の苦悩を経て次第に本復に向かい、ついに命を取り止めるの幸いを得た。

けれども爾来時に脚患襲いきたり、それがついに終生の痼疾となった。

 

そのうちに一八六一年の一月、普王ウィルヘルム四世は崩じ、摂政の弟君が六三歳をもって位をふみ、ウィルヘルム一世と称し、同年十一月戴冠式を挙げ、みずから冠を神壇より取りてみずからこれを頭上に戴いた。

これはビスマルクが露都より一時帰国してベルリンに滞在中、特に王に薦めてしかくなさしめたもので、すなわちホーヘンツオルレン王家の冠は神より授けられ、あえて国民より受けるものに非ず、との意を国民殊に議会の急進党の面々に示威的に表示するとの考えからである。

 

二 入閣の叡旨を辞退す

 

ビスマルクは、新王ウィルヘルムの戴冠式が済んでから間もなく露都に帰任した。

しかるに王は一二閣臣の慫慂もあり、ビスマルクを露都から呼び戻してこれを閣班に加えんとした。

これを漏れ聞きたるビスマルクは『予は露都が好きである、寒気も思ったほど凛烈ではな、予は他日シエーンホイゼンに退隠して大工となるまでここにおりたい、大臣などになる考えはない』と語って辞退の意を内奏した。

実は、王はビスマルクを閣臣に向かえるには異議なきも、むしろ彼を専ら対議会の衝に立たしむべく彼に内相の印綬を授けんとの考えであり、それを看破して入閣不承知と出たのである。

 

彼は勿論内政上にも抱負を有せぬではない。けれども彼は、政府の今日の廟議はとかく内政上には自由主義、外交上には保守主義に引き摺られやすい傾きがあって、その反対の方針を執るの必要ある場合には針路の転換容易ならず、今はまだ自分の出るべき幕に非ずとみたからである。

 

その後ウィルヘルム王には軍備拡張問題にて行き悩み、議会の解散、閣員の更迭など政局艱難を示すや、王は再び彼を台閣に迎えて内相たしめんとした。

けれども彼はまた病に託して受けなかった。

受けなかったのみならず、彼は駐露公使の辞任を申し出た。これには多少威嚇的の意味もあったのである。

けれども彼の内心欲するところの外相の椅子は、この時どうしても王が躊躇してこれを彼に与えない。彼はやむなくば仏国の政情を親しく探査すべく一時パリならば赴任するも可なりとの考えであった。王はこれを嘉納した。

 

三 パリに転任

 

かくして彼は、一八六二年五月、露都より転任の命を拝し、ただちにナポレオン帝の闕下に赴任した。

彼はパリにおいてつまびらかに仏国を研究した。殊に仏帝ナポレオンその他当局外交家の人物をくまなく見極めた。

 

その頃仏国の外交家といえば、グラムモンの如き、ベネデッチの如き、いずれも白眉に推さるる者であったが、ビスマルクは両人を評し『彼らの蠢動するのは首輪のない犬が舞踏するのと同様である、後脚のみで主人の命令せざる滑稽踊りをやりつつあるようなものである、彼ら吠え立てんとすればパリは叱っして静黙を命じ、尾を揺るがしてその命に追従せんとすれば、パリは彼を蹴飛ばす』と。

統一なく責任なき仏国の当年の外交を評して穿ち得たりだ。

 

彼はパリに駐箚中ロンドンに遊び、一夕露国大使の晩餐会に参し、その際同席のヂスレリーに向かっておのれ国政に立たば墺太利を討ち、プロシアを盟主とするドイツ連邦の統一を実行すべしと傲語し、ヂスレリーが人に『あの男に注意せよ、彼は言うところ必ず実行する男だから』と言ったという話が多くのビスマルク傳に記されているが、この説は疑わしい。

彼の細心周到なる、胸底の秘計を軽々しく他に漏らすはずは断じてない。

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