lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

鉄血宰相ビスマルク傳 1 時勢は一世の偉人を産む

 正義人道なり国際協調なりが外交の基調と謳はるるに至った今日、今さらビスマルクの傳でもあるまい、と人或いは貶すかも知れない。

 

何故にしかく貶すかと試みに反問すれば、ビスマルクは権謀術数ををこれ事とせる旧式外交の代表であるが故と多分答ふるであろう。けれども、そは鉄血宰相の僅かに半面にみたに過ぎざる偏こ皮想の観である。否、その反面の見方とても、殆どもしくは全然誤ったものである。

 

彼はいたずらに鉄血主義を奉じ、いたずらに権謀術数を事とし、いたずらに攻伐を好んだ軍閥式の固陋宰相ではなく、むしろ平和を好み自由を愛したる文治的政治家である。

ただ祖国を統一しかつ恒久の平和を欧州の中原に樹立せしめんがため、階梯的一手段として一時荒療治をやったまでである。

かつまた過去の人物を見るには、今日の眼鏡や尺度を以ってせず、その時代のそれを以ってこれを見ることが肝要である。

 

ビスマルクの内政外交の運用には、今日から見れば幾多批評を挟む余地もあらんが、あの時代におけるプロシア及びドイツに処しては彼に非ずんばあれだけの傑作は到底演じ得られない。

彼は確かに当年の時代劇の最大最巧の名優であった。

しかも彼及び彼の政策については、世上今に幾多の誤解が取り残されてある。

 

私は外交史論の一研究者として、彼の長短をおおわず飾らず、赤裸々に描いてみたく多年考えつつあった。これ私が改造社の委嘱におうじ、あえて本傳を草するに至った所以である。

 

    昭和七年二月

                      信夫淳平

   

 

第一章 時勢は一世の偉人を産む

 

第一章 時勢は一世の偉人を産む

 

一 彼の生まれた年の欧州

 

 天は一八一五年という歳に、一世の偉人オット フォン ビスマルクをこの世に下した。

この一八一五年という歳は、欧州の近代史上において最も記憶すべき歳の一つで、すなわち大ナポレオンの巻き起こしたる大嵐の後始末として前年十一月より開催せられたるウイーン会議が未だ局を結ばざる間に、エルバ島を脱出したるナポレオンは、カーンを経て疾風の如くにパリに入りしも、ついに利をウォーターローに失い、いわゆる百日天下で再びセントヘレナに遠たくせられ、他方においてウイーン条約は欧大陸の地図に大改造を加え、神聖同盟は新たに成りて正統主義の美名の下に専制政治を国際的にこう化せしめんとし、欧州の政局は波瀾重畳、天馬空を走って幕のいずれに落ちるか測り知れざる最多事、最多端のときであった。

このときにあたり、彼は年の四月一日プロシアブランデンブルクの一孤村に生まれた。

 

時勢の産める英雄はやがて新英時勢を産む。神聖ローマ皇帝の遺産たる散漫雲の如かりしドイツ連邦は、彼の誕生により他日統一的国家として覇を欧州の中原に制すべく、ここに一条の燭光を将来に見出した。

 

二 彼の家柄

 

ビスマルクの家柄は、これを古きに遡って尋ねるの要もない。

彼の曽祖父はフリードリッヒ大王の七年戦争に参加して名誉の戦死を遂げ、祖父もまた武人で、ことに父は、一八〇六年十月、ブランスウィッツ公の麾下にて仏軍と戦い、カイゼルスラウテルンの役にて負傷し、それがもととなりて後年病死した。

また父の邸園も昔仏軍のために散々に荒らされ、その乱行暴挙の記念が庭の大木に弾丸銃剣の痕跡として留められている。

 

それらを見つつ成長するにつれ、少年ビスマルクの柔らかい頭脳には自然、仏国を憎悪するの念が植え付けられた。

 

ビスマルクは晩年のある時『余の家系には既往三百年間、一人として仏人と戦わざりし者は無かりき』と述懐したことあるが、げにビスマルク家と仏国とは歴代宿敵の関係にあったかも知れない。

彼の父は騎兵隊大佐で軍職を退き、農に帰したが、とにかく彼の家系は世々武門の出であったのである。母はプロシア内閣参事官メンケルといえる者の娘で、すなわちこれまた相応の家柄であった。

 

彼の母には、その昔嫁げる前にこういう一挿話がある。

一七九七年三月二十二日、王儲ウィルヘルムと王太子妃の間に第二王子が生まれた。その長子は後にフリードリッヒ ウィルヘルム四世となられた人である。この第二王子が後に初代のドイツ皇帝としていかに歴史を飾る人となるかは、当時父母両殿下の夢にも考えなかったことである。

丁度その頃、プロシア政府の内閣参事官メンケルなる者、ポツダムに美なる庭園を持っておった。

 

兄妹の両王子は長じて家庭教師に伴われ、よくこの庭園に遊びに行かれた。メンケルの愛嬢ウィルへルミネはいつも喜び迎え、我が子の如くこれを愛した。両王子ことに弟君は嬢を母の如く慕い、一緒に嬉々として遊ぶのを何よりの楽しみとした。

ある日のこと、嬢と弟王子が嬢に手を引かれていつもの如く園内を逍遥していると、そこに巫女がやってきて、運勢を見てあげんと言った。

 

嬢は面白半分に、『よろしい、お願いしましょう』と言って手を出すと、巫女はやがて嬢の手筋を見、『あなたは立派な武官の奥様になられる相がある』と言った。

 

嬢の顔はたちまち潮紅を呈した。けだしその頃、付近に住む騎兵の一士官でしばしば嬢の邸を訪ねる者があり、多少相思の仲であったのであろう。

巫女は更に語を続け、『あなたの息子さんは非常に立身出世し、公爵にまでなられます、そしてあなたの息子さんを引き立てる方は偉大な皇帝となるお方です』と言いつつ王子を顧み指差し、『そのお方は現にここにおられる坊ちゃんです』と占った。

これを聴ける嬢は吹き出し、王子は怪訝な顔して巫女を見つめた。

 

この問答を立ち聞きしつつありし当年の一僕は、ドイツ帝国の建設後間もなく死んだが、その死する際『自分は昔の巫女の占いがまさしく的中したのを見て死ぬのだから真に満足だ』と苦しみの中に語ったことがある。

 

とにかくウィルヘルミ嬢は、その後相思の騎兵中尉カール ビスマルクに嫁し、オットを産み、それが長じて百事右の巫女の予言通りになったといわるるのは、偶然の的中にもせよめでたき限りである。

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