「いた」
スミレの瞳が、廊下を歩くサエの姿を捉えた。今日のスミレは、どうも朝から胸糞が悪い。昨日の夕飯のせいか、それとも、父の様子が普段と違ったのが気になるからか、あるいは朝食、いや、やっぱりあのソ連のせいであろうか。
考えてみても理由は定かでないが、……いつも以上にいじめてやる……。
邪まな気を高めたスミレは仲間を引き連れ、するするサエに迫った。けれど、ここで、
「古谷さん」
スミレの脚がぴたっと止まった。まさか自分が背後から呼ばれるとは思っていなかった彼女は、
「古谷さん。聞こえないの?」
こうまで言われなければ、振り返るのを拒んでいたはずだ。声を掛けたのは、みよ子である。
「あなたたち、いつもお揃いで、仲がいいのね」
「三人官女のようと、よく馬鹿にされます」
「そう」
みよ子は腕を組み、威圧的な態度をスミレに示した。
「けど、それって褒め言葉じゃない?」
「相手の使い方や、こちらの受け取り方にもよるのではないですか?」
「そうね。それで、牧田さんには、どんな言葉を掛けるつもりだったの?」
「何の話でしょう?」
「彼女のあと、付けていたでしょう」
「まさか。付けてなどいません。それどころか、今先生に言われるまで彼女に気付くこともなく歩いていました、私たち。たまたま、歩く方向が一緒だっただけだと思います」
このスミレのふてぶてしさは、両親どちら譲りであろうか。彼女はみよ子から、
「牧田さんをいじめるのはやめなさい」
と言われても、
「いじめだなんて、怖いです」
なんて受け流し、
「あなたでしょ、いじめているのは」
と追及されれば、
「まさか。疑われるなんて。次からは気を付けます」
とやり過ごし、
「彼女を笑い者にしたわね」
こう決め付けられれば、
「もし彼女がそう感じたのであれ、謝ります」
と、しおらしくするのだ。
「そうですわ。学校にお巡りさんが来ていると聞きました。その方に、いじめの犯人探しをお願いしてみてはどうでしょう」
一連のやりとりで、みよ子は確信を持った。
校長は調査を約束していたけど……。
この直感は、彼女の覚悟を揺るぎないものとするに十分であった。
「分かったわ。警察にお願いしてみましょう」
「え?」
まさか本当にするはずがない、そう高をくくっていたスミレたちは驚きを隠さない。
「さっき、職員室で前沢先生たちと話していらっしゃったから、行ってみましょう。ほら、付いてきなさい」
自分から言い出した手前仕方ない。スミレとその子分たちは、みよ子の背中に渋々付いてった。
一方……。
校門前でサエを待つ篤志は、軍服の青年と少しずつ打ち解け、互いの名前を知るようになった。
青年の名は、安藤尊史。
「今夜、出兵するのです」
尊史は朗らかに言った。ただ、
「死ぬ前にもう一度、会っておきたい人なのです」
と、続けてくるのが篤志には疑問で、
「死ぬ気なのですか?」
と返したら、
「戦争です。下手をすれば死にます」
「そうですかね」
「あなたは、無事生きて帰ってこられたようですが……」
尊史は申し訳なさそうにした。
「その……」
「ああ、これ? 違いますよ」
篤志は左腕に視線を落とし、
「まったく別の理由でして。俺は戦争には行ってません。勘違いさせてごめんなさい」
苦笑いしてみせるのだった。
それにしても、この尊史という軍人。上等兵のそれらしく、聡明で島の人たちとはまた変わった教養の薫りをにおわせ、聞いてみれば、年もさほど変わらなかったこともあり、篤志は彼といて、いつしか時間が経つのを忘れていた。
「あなたの命が失われたら、この国には損失です」
出兵前に士気を下げるような発言は不謹慎と知りつつ、篤志は言わずにおけなかった。
「たとえ戦勝国となっても、残った人間が馬鹿ばかりになってしまう」
「そんなことはありません」
凛々しく尊史は答えた。
「散った意志はやがて忘れられても、いつか誰かが思い出し、彼の志操となるでしょう」
「随分と気が長いのですね。俺には言えないなあ」
「自分の考えることなど、利口な人間にはとうに知れたこと、そうでない者にはまるで面白くもないかもしれません」
この謙遜に、「耳には残る科白だ」と篤志。
「人様の受け売りなのです」彼はさらに謙遜した。
篤志は自分なりの敬意とはこうなのだ、と分かる姿勢を彼に示したかった。
「……この島で、これまであなたに出会えなかったのは俺の失点ですよ。まして、ここでの会話には、足りないものがある」
「足りないもの?」
「酒です」
尊史の口元が緩み、今度は、彼が聞き忘れていることを尋ねた。
「篤志さん、あなた、上の名は?」
「名字ですか? そいつは……」
同じころ。
職員室にいた堀部は、みよ子に事情を説明され、「いいでしょう」と快く依頼を引き受けた。いじめの被害者があのサエだと聞き、
どこか虚ろなのもこのせいかな……。
一肌脱いでみる気にさせたのである。
「では能見先生。まずは、花瓶が落とされた場所へ案内してもらえますか」
「僕も何かお手伝いしましょうか?」
数学教師の前沢が買って出たが、
「結構です」みよ子に断られる。スミレたちは「変わったお巡りさんね」と、ひっそりささやいた。
堀部、みよ子、スミレ、妙子、正美の5人は校舎の3階に上がった。みよ子が教室の窓側に立った。
「花瓶が落とされたのは、この辺りからです。この部屋は音楽専門ですので、授業がなければ、生徒や教師の出入りはないんです」
窓辺の棚の上には室内の装飾として、花を生けるための花瓶がいつくか置いてあり、
「そのうちの一つを何者かが、牧田サエめがけて落としたのではないか」と、彼女は言うのだ。
「なるほど」
堀部は窓から下をのぞいた
「この高さから花瓶が当たれば、命の危険は十分あり得る。それで、牧田サエさんという少女をいじめていたのが、あなたたちなんですね?」
彼は、はっきり言ってみせた。スミレがとっさに反論する。
「どうして私たちが?」
「能見先生に連れられていたので、そうなのかなと」
「とんでもありませんわ。いじめだなんて、おっかない」
スミレはあきれた。妙子と正美も事実無根と否定する。
「あなたたちね……」
「まあ先生。いじめの加害者と、ここで花瓶を落とした犯人とが同一とは限りません」
堀部は花瓶の一つ一つを眺めた。今は物資不足のため、中には一輪の花もない。
「どういうことですか?」
「あくまで可能性です」
「牧田さんをいじめている生徒が、他にもいると?」
「それもあるかもしれませんし、ないかもしれません」
この2人の言い草が、スミレは気に入らない。
「ちょっとお巡りさん」
「自分は、お巡りさんではないのですが……。今度は下へ下りてみましょう」
外に出た5人は、花瓶が落ちたらしい場所に立ち、先ほどまでいた3階の教室をそろって見上げた。
「犯人は、少女がここを通るのをじっと待っていたんですかね」
堀部の口ぶりは、どこか他人事のようである。花瓶の落ちた場所でうろうろする彼に、スミレが期待せず聞いた。
「先ほどは申し訳ありませんでした。それで、犯人はお分かりになりましたの?」
「ええ、多少は」
意外にも、堀部は自信げに答えるのである。