明け方。
谷山が交代で仮眠をとっているころ、堀部は自分の決断に悩んでいた。
彼はついに事件の真相に迫ったのだが、犯人逮捕まではしなかったのである。
その後、篤志の死に立ち合い、彼はこの決断がやはり正しかったと思うようになる。
しかし、まだ気が早い。
時間を戻そう……。
8月13日。まだ出港前である。
最後のお別れを言いに、みよ子がサエを伴ってやってきた。
「ありがとうございました」
堀部もこれで最後かと、深々とこうべを垂れた。
そこへスミレもやってきて、
「行きましょう、サエさん」と、手を引いた。
「古谷スミレさん。あたなもお元気で」
「お巡りさん……」
堀部に挨拶され、スミレは恐縮した。
「自分はお巡りさんじゃないんだよ」
「そうでしたわ、すいません」
「周りが何と言おうが、あなたはあなただ。それを忘れずに」
「はい」
こうして本当にこれで最後にしようと、堀部はサエに向き直った。
「牧田サエさん」
堀部が、別れの場で彼女に語れる思い出はこれくらいしかなかった。
「あのハンカチーフの持ち主は見つかりましたか?」
このとき堀部はまったくの笑顔そのものだった。
持ち主が見つかったかどうか。
ただそれだけ、「はい」か、「いいえ」だけ聞ければ、それで良かったのである。
しかし、返事は意外だった。
「あれは校長先生のものでした。真壁先生がそうだと」
「牧田さん、もう行きましょう」
みよ子はサエの肩をぐいと押した。
「待ってください!」
この声に、周りの疎開者たちも振り向いた。それだけ堀部の声量は大きかったのだ。
まるでさっき島民らを一喝したときのように。
堀部の頭の中で、断片だったすべての出来事が貼り合わさろうとしていた。
ハンカチーフ……。
あの日、8月9日……。
……校舎で落し物だと言って彼女が見せた、男物のハンカチーフの持ち主が彼女?
……そうか。
真壁。彼は彼女の愛人だった。
彼のハンカチを彼女が使っていたんだ……それを拾った……どこで?
「サエさん、自分から最後の質問があります」
堀部はサエの手を握った。
「ちょっと堀部さん」
みよ子が迷惑そうにする。
「これで本当に最後です。いいですか?」
サエは澄んだ瞳でうなずいた。
「あのハンカチをあなたはどこで拾った?」
堀部のまなざしが、否応なしに鋭くなった。我ながら、こんな目を彼女に向けたくはなかったが、習性でどうしようもなかった。早く返事が返ってくれば、このいやらしい目をすぐ閉じられるのだ。
「ハンカチって、あのハンカチのことですよね?」
「そうです」
「牧田さん、時間がないわ」
「能見先生、少し黙っていてくれませんか」
堀部はきつく言い放った。
みよ子の顔には、ありありと動揺の色が浮かんだ。無理もないだろう。今の堀部はさっきまでとは豹変している。
そしてサエは答えてくれた。
「落し物だから、と渡されて」
あっさりした口ぶりだった。
「先輩からです。私には誰のか分からなくて。それで授業の合間、職員室にでも届けようとしたら、途中で堀部さんに」
堀部はうつむいた。
……そうか、彼女は……。
サエの手を離すと、「もういいですよ。ありがとう」
「え?」
みよ子は意外そうだった。
「そ、それでは」彼女も船に乗ろうとしたが、
「能見先生は、まだ少しお時間を」
堀部は彼女の肩をつかんだ。
船の中では、先に乗り込んだ妙子と高文が何やら言い合っている。その横をスミレとサエは通り過ぎ、船室に向かった。
「サエさん、本土へ行ったら改めて謝罪させてください」
「そんな」
「さすがに虫が良すぎますか?」
「そうじゃないんです。私、古谷先輩にずっと憧れていたから、その、嬉しくて」
このときスミレとサエは初めて手をつなぎ、お互いを本当に認め合った。
一方、堀部に制止されたみよ子は両腕を組み、彼が何を言い出すのか待った。
「あの事件」
堀部は口を開いた。
「木下則子を殺害した犯人が分かりました」
みよ子は息を飲んだ。「そうですか」
「驚かないのですか?」
「だって、さっきから驚きっぱなしですもの。怒鳴り声もそうだし、ようやく船に乗れる直前で、こうしてまた下ろされるのもそうですし」
みよ子は足元を気にした。そわそわし、足が勝手に動くのだ。
「すいません。けどこれは、自分にとっても、あなたにとっても、そして、彼女にとっても重要なことです」
「彼女? 誰のことです」
「その前に」
堀部は目頭を押さえた。朝から立ちっぱなしで、疲れてきたのである。けれど、あともう少しである。
「その前に能見先生、あなたは、あの事件の犯人を最初から知っていましたね」
「何を馬鹿な」
「馬鹿じゃありません。あなたは知っていた。というより見たのです。犯人が彼女を殺したところを」
「……」
「犯人は」
「待って!」
みよ子は膝を崩した。
「お願いです、言わないで」
訴えるような目だったが、堀部はあえて無視をした。
「犯人は……」
この瞬間、出港直前を知らせる汽笛が港中に鳴った。
堀部は崩れ落ちたみよ子の手を取り、
「すべて分かりました。ただ間違っているかもしれない。それを確かめたいのです」
「……分かりました」
みよ子は立ち上がった。
「今夜の出港は諦めます」
「ありがとうございます」
既に乗船していたサエは、汽笛が鳴ってもみよ子の姿が見えないのが気になった。
「先生」
船内を探し回るが、どこにも見当たらない。
「まさか」
サエは港の岸壁が見える船尾へ駆けた。
「先生!」
生まれて初めて出す大声だった。みよ子はそれに手を振って応えている。既に遠かったが、泣いているようにも見えた。
「先生、どうして!」
サエには理由が分からなかった。また見捨てられたのか。そんな悪い考えも頭に浮かんだが、違う違うと否定した。
「きっと訳が」
そう思い足元を向くと、なぜか涙がこぼれてきた。
結局、あの篤志も見送りに来てくれなかったではないか。
「やっぱり、私は……」
サエは少しふらっとした。そこを後ろから、スミレが抱えた。
「大丈夫?」
「ええ。ごめんなさい」
「能見先生、船に乗らなかったのね」
港を眺めてスミレが聞いた。
「先生だもの。きっと訳があるのよ。海の風は浴び過ぎると体に良くないわ、中へ入りましょう」
サエの肩を抱くスミレの腕がとても温かだった。
「はい」
サエは素直になった。
……今の私には、スミレさんがいる。
胸の内で初めて、古谷スミレを下の名で呼んだ。