あらすじ
対米戦争末期の1945年8月、南樺太に勤務する警察官の堀部は、ある日、火事の焼け跡から出た死体の捜査に出る。死体の状況から殺人と判断する堀部。同じころ、島では国境を接するソ連が対日開戦を宣言する。
「うまく立ち回ってみせるわ」
「あなた方の協力が、校長と私の将来に影響するのです」
「だから分かっていると言っただろう」
源造は真壁を落ち着かせようと、酒をむんずと勧めた。
「若いのにお前さんはよくやっている。あとは年長者の我々に任せればよい。不安か? だろうな。なぜならあの女がくっ付いていなければ、お前さん一人では何もできん」
「私を侮辱するのですか?」
「よくやっていると言った。まあ聞け。もったいないことに、お前さんには周囲の耳障りな言葉に気を取られるきらいがあり、親がせっかく育てたおつむと体を持て余してやしないかい? うん? どうだ、身に覚えがあるだろう」
「それは……」
「今夜一人でここに来たのも、そろそろ独り立ちを、と思う節があったからだろう」
源造に見透かされ、真壁はたまらず手元の酒をぐいと飲んだ。それで面倒な考えはやめた。
「美味いだろう。私の家に来れば、戦時中でも美味い酒が飲める」
「自分はこれで……」
「うむ。あの女にもよろしくな」
真壁が去り、源造は手酌で酒を食らおうとした。
「小物め。体以外は使えん奴だ」
「お父様」
スミレの声で襖が開き、彼の手が止まった。
「真壁先生、どんなご用事でしたの? お母様ったら、突然の来客にご機嫌斜めでしたわ」
そう言って、彼女から父に酌をする。
「お前は知らなくてよいことだよ」
「そうかしら」
「なら当ててごらん」
正座のスミレは澄まし顔で、「何かしら。戦争でしょう」
「当たりだ。よく分かったね」
「子供じゃありません。当然と思ってもらいたいですわ」
「おやおや、お前も言うようになった」
「大人は騒ぎ過ぎます。ソ連が攻めてきたからといって、何事を恐れる必要があるでしょう」
スミレは凛とした正座を保っていた。
「ある書物によれば、かの国の男どもときたら、ろくに仕事をせず酒浸り、女も亭主や子供を放って社交に暮れる、非生産的な国民性といいます。あの米国とも、ここまで互角に渡り合ってきたのが我が帝国男児です。今さらそのような国の軍隊に負けるはずありません」
源造は茶碗をのぞき、神妙になった。
「精神的にはそうかもしれん」
「だって、すべてはそこからでしょう、お父様」
「お前もまだ若い。……スミレ、この先、お前の思い通りにならない、予想もしないことがいくつも起こるだろう。だがな、どんなに思い通りにならない状況でも『思う』ことは怠ってはならないぞ」
「分かっていますわ」
「そうかそうか。ならいいんだ」
スミレには、このときの父の姿が特別印象深く刻まれている。
さて……。
この日、真壁がまだ堀部に捕まっているころ。スミレと小野田妙子、松本正美の3人は教室の隅に固まり、休み時間のお喋りに真剣だった。
「昨夜、火事があったの知ってらっしゃる?」
妙子が切り出した。
「夜中に表で人が騒ぐ声がして、何かしらと両親と一緒に出てみたら、口々に火事だあ、火事だあって。家からそう遠くなく、怖い思いをしたわ」
「もっと怖いものが近付いてるじゃない」
正美が投げ掛ける。
「そうですね……」
妙子は机に頬杖をついた。
「さすがに登校も今日までかしら」
「今日だってよくやるわよ。私たち何も悪いことしてないのに、私、悪い気がしているんだから」
こう言って正美はため息し、スミレを見やる。
「スミレさんはどうなの?」
「私? 私はねえ……」
スミレは両手を胸の前で組み、祈る真似をしてみせた。
「ものすごく心配。みなさん無事生きて戻ってきてほしいもの」
「あら意外。国のためなら命を懸けて戦ってもらいたい、なんて言うのがあなたじゃなくて?」と正美。
「それは兵士の心構え。待つ側の思いはまた別」
「待つ側だなんて。まるで、待ち人がいらっしゃるみたい」
妙子の興味がうずき、彼女は続きを求めた。
「子供じゃないの。気になる人、憧れる人くらいいるのが普通でしょ。妙子さんだって」
「何人かは思い浮かびますけども」
「何人か? 知らなかったあ。妙子さん、あなたって意外と淫らなのね」
正美が面白がる。
「そんな意味じゃありません……」
「別にいいじゃない。あなた可愛らしいし、一人にこだわることないんじゃなくて。ねえスミレさん」
「正美さん、妙子さんをあまりからかわないであげて。あなたの言葉、ぐさりと刺さる人もいるのよ」
こう言って、スミレはその偽善ぶりに我ながら失笑する。
そう、あの日まで、彼女は自他共に認める品行方正なレディーであった。
あの日が訪れるまでは、道をそれない生き方を家族に期待され、彼女自身もそうしようと日々を過ごしていたのに。
しかし……あの日から、彼女は今まで知らなかった己の未熟さと醜さを知ってしまい、抗いようもなく激情に押し流され、今では……。
あのサエを標的にしている。
さあ今日もそろそろ、その時間がやってきたようだ。
「行くわよ」
スミレの背中に妙子と正美も付いていく。
この2人も何だかんだで面白がっている偽善者だ。スミレにとっては頼んでもいないのに責任を分担してくれる、都合いい共犯者である。