みよ子は憤然とした。
「だから、彼女たち以外で誰がやったというのですか?」
「やったというより恐らく、やってしまった、でしょう」
堀部は冷静に答えた。
「ねえ、前沢先生」
みよ子と真壁がぎょっとする。
「あなたが花瓶を落とし、牧田サエさんに怖い思いをさせてしまった」
これには前沢も仰天して、あきれた風に笑い始めた。
「何を言ってるんです。どうして僕が」
「悪意はなかったでしょう」堀部は淡々と続ける。「3階のあの音楽教室は窓の前に棚があり、その上に花瓶が置かれています。狙って落とそうと思えば棚が邪魔になり、身を乗り出さなければならない。それは、松本正美という少女が証明してくれました……」
みよ子の頭にも、その場面が浮かんだ。
「もし外に身を乗り出していたら、その姿は誰かに見られたはずだ。けど、目撃者はいません。つまり、花瓶が落ちたのは不注意。あなたがあの教室で花瓶をどかそうとし、誤って落としたんです」
「馬鹿な。だいいち僕は、あの教室になんか……」
「確かに。戦時下では不謹慎との理由から、授業で音楽教室が使われる機会はめっきり減りました。掃除の頻度も少なく、ここ最近で掃除に入った教師はいないようです」
「だろう。だから僕だって、あの教室には入ってない」
「それは嘘です」堀部は一歩、前沢に詰め寄った。「あなたは最近教室に入った。先ほど、能見先生と生徒らとの言い合いの中で、『枯れた花しか差せない器』と仰ったのはなぜですか」
「それは……」
「あなたは気紛れに教室を掃除しようとし、花瓶の花がどれも枯れていたのを見たのでしょう?」
「違う、あのときの話の流れで……合わせただけです。もののたとえですよ」
「そうでしょうか。あの流れだと普通は、『枯れた花しか差せない器』ではなく、『生ける花もない器』と、たとえるはずです」
「そんなもの、あなたと僕の想像力の違いじゃないか!」
前沢は声を荒げた。
「空っぽの花瓶だから想像で!」
「空っぽ?」堀部は聞き返した。「なぜ、花瓶が空っぽだったと?」
「だから……」
「あの教室に入っていないあなたが、花瓶が空っぽだったと知るはずがない。それとも、空っぽだなんて誰かが言いましたか?」
みよ子も真壁も唇を結んだ。堀部はドアノブに手を掛け、前沢に付いてくるよう命令した
「教室に踏み入れてもいない。そう頑なな否定をしなければ、あるいは言い逃れできたかもしれない。あなたは卑怯にも見て見ぬふりをし、それに足をすくわれた」
◇◇◇◇
「篤志さん、どうしてそう頑なに、上の名を隠すのです? 戦死したら、もうあなたの名を知ることができない」
「大丈夫、あなたは死にませんよ。無事に帰られたら……おっ、誰か出てきましたよ」
都合よく、篤志は校舎の向こうを指差した。
「残念。あれは先生方ですね」
篤志の指の先には3人。女性が1人と、男性が2人いる。女性はみよ子である。歩きながら、彼女は堀部に向かい、
「まさかとは思うのですが、何かあれば、捜査にはご協力いたします」
そう申し添えた。
「あの校長に限ってね……」
前沢はうなだれ、
「でも、あなたは勘が鋭いから……」と、つぶやいた。
「彼女のご自宅に行けば、はっきりするかと思います。……あなたは、留置場で少し反省しなさい。誰もやろうとしない掃除をやろうとしたのだから、根はきっと悪い人間じゃない。魔が差したのでしょう」
堀部はこう言うと、見送りのみよ子に慇懃に頭を下げた。これを見ていた篤志、「堀部さーん」と気さくに呼び掛ける。
「あらら? あなたは」
「どうしたんです、こんなところで」
「君の方こそ、どうしてここへ?」
「女です。女を待っているんです。こちらの上等兵様と一緒に」
篤志は右手を差し、尊史を紹介した。
「ちょっと……」彼は困った顔になる。
「ごめんごめん。分かっていますよ、堀部さん。今朝の焼死体の件ですね、身元はここ?」
「焼死体?」
これにはみよ子と前沢、それに尊史も驚いて声を上げた。今度は堀部が困った顔になり、「そのことは伏せていたのだけど……」
「あれ、本当ですか? ごめんなさい……。けどすごいなあ、よくここを探し当てましたねえ。身元が分かりそうなものは、全部燃えちまってたのに」
「君」
「なはは」
篤志はない左腕で申し訳なく、頭をかく真似をした。この振る舞いに、「あなたは……」と、みよ子がうっかりこぼす。
「お姉さん、どこかでお会いしました?」
先日、彼女は町で篤志を見かけ、サエに言い寄る姿を覚えているのだが、そんなことを彼は知らない。
「あなたは、実際どういう人なんです?」
尊史が聞いた。
篤志は嬉しそうに、「どうもこうもご覧の通り、一介の酪農家さ」
その夜の堀部、状況の一部始終を署長に話した。
「家へ行きましたが、いませんでした。彼女は一人暮らし。家の鍵は掛けられ、中に入っても荒らされた様子もなく、車も置いたままでしたね」
「本当に、あの校長が?」
「学校関係で不明なのは、この木下則子だけです」
堀部が言うには、
「教頭の真壁が対応に出てきたことですぐ、ああ、校長はご不在かな」
と察し、
「あとは他の教師らの出勤を確認したら、話を聞いて回った」
のだそうだ。
教師や用務員については、昨夜の行動で曖昧な点も多いという。
「生徒にも疑いが?」
「それはまだ」
ところで堀部が驚いたのは、あの篤志という青年とサエが、恋仲にあったということだ。あの後、サエが校門に見えたときの彼の幸せそうな顔といったら、子を持つ親としては気恥ずかしく、教師の能見みよ子に至っては、にらみを利かせていた。サエ本人は、
「違います」
そう否定していたものの、まんざらでもない感じを受ける。なので、あの場は無粋と察し前沢の件は黙っていた。みよ子あたりが、うまく話してくれるのではないか。
あと、明日から国のために戦うというもう1人の青年。彼も、
「待ち人がいる」
と言っていた。戦時下にあり、この島の恋愛事情がなかなかに活きだと知れたのは、興味深かった。
「あの女学校以外の関係者は、明日にでも」と堀部。
「明日ねえ……」
「難しそうで?」
「長官がな……。戦局は厳しい。それに今度は、長崎にも爆弾が落ちたんだそうだ」
署長はかなり堅い表情で、
「だが、君は運がいい。教職者は、赤インクが必須のようだ」
「校長先生も添削することがあるとは」
「どこも人手不足。爪に染み込んだのが黒インクだけだったら、対象を絞るのは大変だったろう」
堀部はうなずき、静かに部屋を後にした。同僚の谷山が彼を誘ってきた。
「晩飯まだだろう。一緒にどうだ?」
「家族が待ってるだろう」
堀部は遠慮しようとするが、
「だから、うちに来て食え」と、熱心にお誘いを受けた。
「この島で、お前と晩飯食う機会も、もうないかもしれんし。承知とは思うが、大したものは出せんよ。ニシンの塩漬けと、奮発して狐の干し肉を煮てやろうか」
「十分過ぎるご馳走だ」
「飯は食えるときに食っとかないと、体もでかくならん。お前はそれを怠ったな」
谷山はがははと笑う。
「事件は解決できそうか?」
「分からん。一応捜査は続けるつもりだが」
堀部は伏し目がちになり、
「見ての通り、署員も島民も警備に動員されてる。そちらに専念すべきとの思いもある」
彼は役目に迷いがあった。学校で思いをぶちまけたあの女学生の言い分、本音ではもっともなのである。
「死んだ人間の相手より、生きた人間に尽くす方が徳だと?」
「違うか?」
「違わないな。死んだ人間はどうやっても生き返らない、しかし、生きた人間は生かすことができる。だが、そうなるとだな、生きるとは何だ、という問題に直面しやしないか?」
「ふうん、哲学だ」
「死んだ人間に価値がないとしたら、これまで死んでいった兵士たちはどうなる? 死んだから無意味か? じゃあ、これから死ぬかもしれん兵士たちはどうだ? どうせ死ぬからと無視するのか? そんなことを言えば……」
「人間は、どうせみな死ぬ」
「そうだ。人の存在を生き死にのみで区別するのは、賢い判断じゃあない。生前、そいつが何をしようとしたか、何を残したか、どこに無念があったか。そこに考えを巡らせてやるのが、生きるってことだろう。でなきゃこの世は結局、虚無だ」
谷山はこう熱弁をふるい、ぐうっ、とお腹を鳴らした。
「腹が減るな。哲学は腹が減る。とっとと帰ろう」
堀部は一歩後ろを歩き、
「俺の事件に、死者を生き返らせるだけの価値があるかな?」
「知らん。お前で見つけろ」
とりあえず、彼はうなずいた。
「それにしても、お前。腹の虫がうるさい」
今夜は、自粛の雰囲気が一段と強まっている。
静かに、静かに。
しかし、真夜中。
「……くそう」
女学校の校長室に、荒っぽい人影があった。
「どこにもない……」
どんなに探しても目当ての物は見つからず、月明かりに、真壁は愕然とした。