あらすじ
対米戦争末期の1945年8月、南樺太に勤務する警察官の堀部は、ある日、火事の焼け跡から出た死体の捜査に出る。死体の状況から殺人と判断する堀部。同じころ、島では国境を接するソ連が対日開戦を宣言する。堀部は聞き込みした女学校で、生徒のサエや、教師のみよ子らと出会う。
「本当ですの?」
「多少はですよ。可能性を一つずつ消しているところです」
彼はスミレたちにお願いした。3階の教室まで一人戻ってもらい、窓から手や顔を伸ばしてもらいたい、というのだ。 役を引き受けた正美が、
「やっほー」
と身を乗り出しふざけたら、
「危ないからやめなさい」
みよ子がきつく叱る。堀部は手のひらを拡声器のように口に当て、
「どうもありがとう! 君はそのまま、職員室に向かっちゃってください!」
みよ子は不思議そうにした。
「職員室ですか?」
「はい。我々も行きましょう」
職員室では「お先に」と正美に迎えられ、椅子に座っていた前沢も数学の答案を採点・添削する手を止めた。
「意外と早かったですね。降参ですか、それとも」
「最後の仕上げ、といったところです」
ここで、真壁も職員室に入ってきた。
「ああ、まだいらっしゃったのですか……」
「ちょっと、先生と生徒さんたちに別の用件を頼まれまして」
スミレは意地悪く、「私たちは頼んでませんわ」
「そうでしたね」
「あのう、あの件なのですが……」
こう尋ねてきた真壁は物腰が丁寧に変わっていた。生徒らの前とはいえ、やけに堀部を気にし、ひどく暗い顔にも見える。
「あの件とは?」
みよ子が聞くので堀部が代わりに、
能見先生にはまだでしたね。花瓶の件を片付けたら、改めて先生にも話を伺わせてもらいます」
「はあ……」
彼女は何の話か見当も付かない様子であったが、すぐ頭を切り替えた。
「牧田サエに怪我させた人間が、もう分かったのですか?」
みよ子はスミレたちをチラと向いたため、彼女らからまた非難の眼差しを浴びる。前沢が、かばうように割って入った。
「どこも物不足、人手不足だというのに、花瓶を壊して人を怪我させる人間が校内にいるとは考えたくないですよ」
「花瓶? 怪我? 何のことです?」
真壁が説明を求めた。
「教頭先生ご存じなかったのですか? 4学年の牧田サエが落ちてきた花瓶で怪我をしたのです。校長先生も調査をしてくれると仰っていたんですよ」
みよ子は真壁を責めた。
「本当ですか? 知りませんでした」
「生徒の問題なんて、お忙しい校長先生や教頭先生には俗事ですものね」
スミレがまたこんな皮肉を言うものだから、
「ば、馬鹿を言ったらいけない。教育者として生徒のため、樺太のため、我が国の未来のため、校長も私も、手伝えることは選ばずやってきているのだから」
このように返した真壁ではあったが、このとき彼はスミレの瞳の奥に、源造の影を見た。
「もう、犯人なんてどうでもいいのでは? サエという子の怪我も大したことなかったのだし」と、飽きたように正美。
「割れた花瓶も、特に値打ち物ではありませんわ」
妙子は自分の爪が気になった。
「何でしたら、うちから別の代物を寄付いたしましょうか?」
「あなたたち、そういう問題?」
このみよ子のいら立ちに、スミレが挑発的な態度を重ねる。
「妙子さん、もったいないわ。ろくに生ける花もないのだから」
「やっぱり、あなた……」
生徒と教師の間で一触即発の気配が出た。
「おい。悪用すれば、枯れた花しか差せない器だって凶器になり得る。その悪意が問題なんだ」
前沢は落ち着かせようとしたのだが、スミレの目つきがググッと険しくなった。
「悪意ですか? 悪意だったら、もっと強大な相手が迫っているじゃありませんか。今こうして、私たちが不毛な言い争いをしているうちに、どれだけの兵士が戦い、傷付き、死んでいってると思うのです? 敵はもう、目の前なのですよ。第八八師団の彼らが破れれば、女子供がどんな目に遭うか……。こんなつまらない事件に関わる暇があったら、祈りでも捧げてる方がましですわ!」
この迫力に、職員室の他の教師らも一瞬たじろいでしまう。
そっくりじゃないか……。
真壁は背筋が寒くなった。
「スミレさん、あなたらしくないわよ」
「私たちも言い過ぎましたわ」
正美と妙子になだめられ、スミレは唇を噛んだ。とここで、堀部が言いにくそうに、
「私の子供たちも長いこと戦争に出ています。ずっと心配です」とこぼす。そうして場を持ち直し、真壁にいくつか質問をした。
「花瓶はすべて学校の備品で?」
「ええ」
「造花でよければ、私も寄付できますが」
「はは。ありがとうございます」
「普段授業で使用する教室以外の清掃は誰が?」
「できるときに、教師が生徒にも声を掛け、手分けしています」
「では、音楽教室は生徒さんが掃除する場合もあるのですね?」
「そういうこともあるかと……」
「掃除のとき以外であの辺りに生徒がいると目立ちますね」
「で、でしょうね」
「最後に」
堀部は前置きし、
「もしあなたが、見てはいけないものを見たとしら。どうします?」
「な、何ですかそれは」
「どうしますか?」
「こ、困るでしょう」
質問が抽象的で、真壁は幼稚な答えしか出せない。
「それは気持ちだ。どんな行動や態度を取られます?」
「さ、さあ。見てないふりでもするでしょうか」
「ありがとうございます」
この後、堀部は別の教師らにもいくつか質問し、
「ふうん」
首をひねった。
……やっぱり分からないのかしら。
みよ子が落胆し始めたころ、彼女に前沢、それと真壁が「こっちへ」と堀部に呼ばれ、4人は職員室を出て教頭室に入っていった。
バタン。
「あの生徒さんらは帰しても構いません」
唐突に堀部が切り出す。
「なぜです? 彼女らは……」
みよ子が食ってかかろうとすると、
「いじめは確かに看過できませんが、花瓶の件と彼女らは無関係です」
彼は言い切った。
「彼女らの今後の素行については、この学校の教育的指導に期待します。まあそれも、いつまでできるかは分かりませんが」
「なぜ彼女らを?」
「犯人が別にいるからですよ」