サエに気付いたスミレは彼女に近寄り、
「ごめんなさい」彼女は深く頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
何度も謝罪を繰り返す彼女の目には、透き通った涙も浮かんでいた。サエはスミレの姿を真剣に見つめ、隣のみよ子が冷静に見守った。
「先輩、もういいですから」
「けど、私……」
「もういいんです。十分伝わりました」
サエのまなざしは穏やかだった。許してくれる、こんな私を、許されなくても当然なのに……。スミレの涙はさらにあふれ、「ごめんなさい」と、また頭を下げるのだ。
みよ子が震えるスミレの肩を抱いた。
「仲直りね、あなたたち」
こう言われ、サエもスミレもクシャッと微笑んだ。スミレはクシャクシャの泣き顔でもあった。
そんな光景を妙子と高文も眺めていた。
「妙子さんは行かなくていいの?」
「私は……」
妙子は咲きかけのつぼみのようにもじもじし、「船が出てから、一人で行きますわ」
彼女にはスミレのついでのような謝り方は誠意の足りないことと思われたのだ。
「そう」高文にも彼女の意図が分かり、これ以上何も言わなかった。
出港を目前に控えた港は疎開者で込み合い、いら立った島民同士の小競り合いも一部で起きた。それを止めるのも堀部の役割だ。
堀部は体格にあまり恵まれていないので、取っ組み合う島民を引き離したり、つかみ合う前に止めたりする力業はあまり得意でない。言葉で穏便に説得できればいいのだが、こうした場合、おおよそ徒労に終わるのを彼は人生経験でよく心得ている。
対処法はこうだ。
「うるせえな、大人しくしろ!」
どすの効いた低い声を堀部は飛ばした。
ついでに、獲物を狙う獣のような目で乱暴する島民をにらみつけた。この目がまた鈍く光るようで怖いのだ。声にも重厚感があり、空気を一気に重くした。
「じ、じじいに絡んでもしょうがねえ」
ある島民はこう言って大人しくなったが、気迫負けしたのは明らかだった。
強い暴力に気迫が宿るとは限らない。気迫は外から突然宿るものではなく、下から支えて踏ん張るものである。踏ん張りの原動力となるのが、蓄積した経験と、その葛藤がつくる人格の器量なのだ。
この荒ぶる堀井に、みよ子は目を丸くした。普段を知ってればこそである。
……あんな一面もあるのね。
怖いというより、彼女は感心した。
「恥ずかしい姿を見られました」
束の間の一段落をこじつけに、堀部がみよ子に話し掛けた。
「心根の浅さが知れてしまった」
みよ子は首を振り、
「いいものを拝見しました。教職でも参考にさせていただきます」
「本当ですか? そいつはまいったな」
堀部は少年のような笑顔になった。悪い気はしてないのである。
さて、徐々に乗船も始まったころ、厠で用を足した高文が、出てきたところで正美とばったり会った。
顔は知っていたので彼が挨拶すると、突然正美が腕を組み、脚まで絡ませてきた。高文は戸惑ったが、無理矢理振りほどくわけにもいかず、固まった。
正美は耳元でささいた。
「本土へ行ったら、よろしくお願いします」
彼女にとって、彼は念のための保険だった。別れ際には胸まで触らせ、淫靡にその場を離れた。
高文には訳が分からない。頬をつねって現実かどうか確かようかとも思った。馬鹿げてるのでやめたが、自然と顔がにやついた。
……思いがけず、いい思いをした。
高文は樺太での最後の恥だと割り切り、妙子にも黙っていればいいのだと、口笛交じりに船へ急いだ。
そして、このころ。
島西海岸のとある地域では、谷山がソ連の海路進入を警戒する部隊で見張りに当たっていた。
既に他の沿岸部では上陸を許したとの報もある。
……ここも時間の問題か。
来たるべき現実を見据えつつ、与えられた職務をこなすのは並大抵の精神力では務まらない。ただこなすだけのと、まっとうするのとは別物なのだ。
老眼も疲れてきたとき、ついに谷山は見つけた。見つけてしまった。
「敵だ、敵の船だ!」
谷山は刹那の間で叫び、仲間の戦闘態勢を呼び掛けた。
間もなく、谷山の叫びよりずっとでかい音の艦砲射撃が飛んでくる。
「うわあ!」
我ながら情けない声だった。これが現実だ。谷山は臆病ではない。警察官でもあり、世間一般では勇敢な部類ではあるが、戦闘は素人である。敵を殺す方法も、自分を生かす手段も中途半端な知識しかないのだ。
それでもやらねばならぬ。今の現実なのだ。
彼はこの戦争が終わったら、堀部に教わったやり方で狐の肉を煮て家族に振る舞ってやるのが当面の生きる目標だった。現実に迫る死に立ち向かうには、具体的なちっちゃな目標が不可欠だった。
「ちくしょう」
艦砲射撃が激しく、今は一時後退するしかない。
ふざけてる、こちらの砲台とあまりに威力が違い過ぎるじゃないか。
「殺人事件の捜査の方が全然楽だな! うわあ!」
谷山はこけた。すぐ起き上がり、また後退する。
「俺がこんな苦労してんだ! あいつもやっぱり、やらねばならん!」
周囲の仲間にはよく分からない適当な理屈を吐いて、谷山はどうにか正気を保った。
そう、まさにこれが知る人ぞ知る非公式の戦場心得である。
どこぞの無名の兵士も、有能な士官も、米国もソ連も、あの安藤尊史も現場はそうやって戦っているのだ。
そうやってとは思考を単純化し、眼前の複雑な状況を切り分け、その日一日をまず生き残ることで複雑さに対処する術である。穏やかな平時にはこうはいかない。戦時のみ使える心の応急処置であった。
「俺が苦労してんだ、あいつもやらねば!」
おかげでこの日の谷山、多少の傷は負っても命の危険はなく、戦闘をやり過ごせたのだ。