「あのう……」
こう声を掛けられたのは、堀部が校舎内をぐるりと回り、玄関前まで出てきたときだった。
肌の白い少女である。サエだ。
「こちらを落とされませんでしたか?」
サエは堀部に片手を差し出し、その手のひらには男物のハンカチーフが乗っていた。堀部はぬっと顔を近付け、
「いえ、自分のではないようです」
手を引っ込めたサエは、「すいません」と恥ずかしそうにした。
「どなたのでしょうね。男物のようですから、先生の持ち物ではないですか?」
「はい。職員室へ行ってみようと思います」
「でしたら自分も。そろそろ戻ろうとしていたところです」
2人は改めて自己紹介をする。
「ご案内します」
サエはこう言い、2人は並んで歩いた。
「あなたは何学年です?」
「4学年です」
「では、今年で16歳?」
「はい。先月に」
「7月生まれですか」
堀部の表情が若干柔らかくなった。
「うちの娘と同じですよ」
「お嬢様もこの学校に?」
「いえいえ。もう成人しています」
「ご父兄の方ではないのですね」
「学校にお願いごとがありまして。真壁教頭にご協力いただいています」
「教頭先生、お体の具合が悪そうではありませんでした?」
「具合ですか?」
具合がどうというより、心ここにあらずの様子だった、と堀部には思えた。
「ここ数日、表情が優れないようで。教頭先生は私たち生徒にとても紳士的に接してくださる先生なんです」
「なるほど。先ほどお会いしたときは、具合が悪いようには思いませんでしたよ」
「本当ですか。良かった」
「お優しい生徒さんに慕われ、先生も幸せでしょう」
「そんな……」
職員室に戻ると、既に真壁がいて、堀部はがっと詰め寄られた。
「どこへ行かれてたんです?」
「すいません、私が校内をご案内していました」
このとっさのサエの機転に、
「こほん」
堀部はお礼代わりの咳払いをしてみせた。
この子は優しい子だ……。
やや活気が薄いのが気になるとこではあるが、まだ若く、これから経験を積んでいくにつれ感情も充実し、立派な大人になるのではないか……。わずかな会話でも、堀部にはそう思えてならぬのだ。
島の状況が緊迫しているだけに、印象の良い若者の将来に期待を託し気味になってしまうのは致し方ないことではあった。
「……そうだったかい。牧田君、ありがとう」
真壁は、再び教頭室に堀部を招き入れた。
「教室もいちいち見て回って、確認いたしました」
「申し訳ありません」
「明日をも知れぬ状況というのに、みな教職の鑑だ。うちの教師は全員おります」
堀部はうつむき加減で、
「そうですか」
納得がいかない様子だ。
「何です?」
「何かお忘れでは?」
「どういうことです? 私に不満でも?」
「そういうわけでは」
「そもそも、身元不明の遺体がなぜ学校関係者と分かるのです?」
「それは捜査上の秘密になります」
「秘密ね。いいでしょう。用件も済んだのだ。お引き取りを」
真壁は手でドアを差し、堀部の退出を促した。しかし、堀部は急に話を変える。
「体調を崩されていたそうですね?」
「……?」
「そんな話を耳にしました。やれやれ、ご病気でもお休みになれないとは、頭が下がります」
「戦争中ですから」
真壁は謙遜した。すると、
「ソ連軍の攻撃は今日からだ」
また分からぬ話をしてくるので、
「戦争状態は既に、いつも、でしょう」
と答えた真壁だが、
「体調が悪かったのは、お認めになるのですね?」
これがいかにも彼の気に障る物言いだった。
「何が言いたいのです? 教師の出欠以外にも知りたいことがあるのか? 話がなければこれで引き取っていただきたい!」
彼は思わず語気を強めた。どうせ話しをするなら、他に話さなくてはならない奴らが彼の頭の中にはいた。
あっちは、首尾よくやっているのか……。
それが昨夜である。
ソ連開戦の報を知り、真壁はいても立ってもいられず、まず真っ先に駆け入ったのが古谷源造の家宅だった。