あらすじ
対米戦争末期の1945年8月、南樺太に勤務する警察官の堀部は、ある日、火事の焼け跡から出た死体の捜査に出る。死体の状況から殺人と判断する堀部。同じころ、島では国境を接するソ連が対日開戦を宣言する。堀部は聞き込みした女学校で、生徒のサエや教師のみよ子らと出会い、死体が、校長の木下則子であることまで突き止める。
3 翻弄
第八八師団、歩兵第一二五連隊。
8月9日以降、かの部隊は島北側国境付近から攻撃してきたソ連軍への応戦を続けた。
同連隊兵士らは勇ましく精神の極限を保ち続け、疲労感に疲労する暇もなく、帝国の国土防衛に身命を捧げていた。
8月10日。
砲弾飛び交う中、ある無名の兵士が叫んだ。
「この酔っ払いどもがあ!」
これは素朴な彼の、一面的過ぎる固定観念ではあったが、現状に立ち向かう上では多大な勇気を与えたものだ。別に酔っ払いでなくとも、でくの坊、素寒貧、つんぼ、気違い、火事場泥棒など、とにかく何でも良いから、相手を侮蔑的に単純化した言葉こそが戦場の空気感に合致するのだ。
同連隊の某氏いわく、
「物事の単純化とは、いわば恐怖の超克であり、過信の純化であり、すなわち活力の増強といえる」のだそうだ。
活力がなければ人は生きる気が起きず、やがて早々の死を自ら望むようになり、
「敵と戦い、勝つ」など到底不可能な心理に陥ってしまうであろう。
このため兵士にとって、活力の維持は絶対不可欠の処方箋なのだ。だから、この無名の兵士はもう3時間以上にわたり、
「酔っ払いどもが!」以外発していない。
しかし、その野蛮さはソ連兵にしても同じであるから、気兼ねする必要はまったくなかった。彼らが帝国軍人に対し好みそうな蔑称は狐目、小猿、土人、米食い虫、やせっぽ、など想像だけでも多岐にわたる。実際彼らがどう帝国軍人を呼称しているか定かでないのは残念なのだが、もし知っていれば、
「何? 俺たちにこんな蔑称を!」
と、憤怒で血が湧き立つに違いなかろう。
ただ、これでは逆効果だ。絶対知られてはならない。情報戦は相手を知るだけでなく、不必要に知られてはならないのが大原則であり、兵士の間で流行る悪口すら、機密の対象にすべきだった。もしも彼らが帝国軍人を、
「ファシスト」
と、呼んでいると分かったら、多少はインテリジェンスの薫りがにおうこの呼び名に対し、
「怒りが高まらんではないか!」
と、再考を願い出るものである。ファシストではまだ『複雑』なのだ。
以上は、同連隊の某氏が無名の兵士に伝えた、非公式の戦場心得である。
「酔っ払いどもが!」
無名の兵士はまた叫び、次の瞬間死んだ。既に同連隊の死者は多数、敵の損害は不明である。
そして、この日が初陣の安藤尊史。無名の兵士の亡きがらを尻目に、彼も懸命に戦っていた。
「明日は我が身、明日は我が身……」
彼の場合、運命を単純化し諦観の境地を我がものとすることで、必ずや敵軍を撃滅せんとする覚悟である。
「明日は我が身、明日は……」
◇◇◇◇
8月10日。
この日、現実と戦おうとする男がもう1人
あの人が、そんな残酷な形でいなくなるはずがない……。
布団の中、昨夜の楡井は一睡もできず朝を迎えた。
どこかで無事にしているはず……。
サイロで見つかった焼死体が木下則子ではない、そう証明したいのだが、彼には方法など分からない。もし、死体が本当に彼女なら、犯人逮捕に協力を願い出て、しかし復讐のため、法を破る覚悟だけは譲らん、などと不穏当な考えが彼を巡った。
もしも本当に彼女に何かあったとしたら……。
「怪しいのはあの男だ……」
楡井は、あの日の夜更けを思い出した。
ソ連参戦の数日前、この寝床の窓から見た男女の密会である。女は恐らく、ここの女学生の誰かだろう。彼の素朴な認識によれば、年頃の娘とは誰もが秘密の恋愛ってものに憧れを抱くのである。怪しむべきはそんな小娘ではなく、相手の男だ。仮に則子の殺害を企む者がいるとしたら、彼には女が女を殺る動機より、男が女を殺る成り行きのほうが自然なことだと思われた。
いずれにせよ、則子の姿が見えないのは事実なのだ。
手掛かりは、きっとあの男だ……。しかし、馬鹿な俺一人ではどうにもならん……。
彼はしばらく思案し、
「そうだ」と、寝床から起き上がった。
今日、学校は休校。用務員の仕事も特になく、校外に出るなら今だった。
「あいつに頼もう」
外に出た彼はズボンのポケットに両手を突っ込み、急ぎ足になった。面倒だったのは、校舎には自分以外誰もいないわけではなく、すれ違えば挨拶をしたり、されたりしなくてはいけなかったことだ。能見みよ子もその1人で、
「おはようございます」
こう丁寧に挨拶されれば、
「お出掛けですか。どこへ行かれるんです?」
と、決まり文句のように聞いてくるのだ。
「ちょっと友人のところまで……」
「遠くまで行かれるので?」
「すぐ近くです。久しぶりに顔でも見ようかと思いまして」
楡井はこれで立ち去る気満々だった。
「鍵は掛けました?」
「はい?」
「あなたが寝泊まりしているお部屋。鍵は掛けて出られました?」
「いえ。どうせ誰も入りやしません」
「学校とはいえ、物騒な世の中です。用心に越したことはありませんよ」
どうでもいい話で足止めされる。しかも今度は、
「おはよう、お2人さん。何のお話しをされてるんです」
と、真壁のご登場だ。
「能見先生。牧田サエのことですが、その後どうです?」
「ええ。驚いてはいましたが、事実を知れてほっとしたようでした」
急ぎの用がある日ほど、思い通り事が進まない。
……この2人、授業はないというのに何しに来てるのだ。
みよ子も真壁もにこやかに会話し、則子の存在など忘れているようで楡井は気に入らなかった。特に教頭の真壁。この男が上っ面だけのろくでなしだと、楡井は直感で知っている。
……ちいとばかり男前だからと図に乗って、あろうことか校長の尻まで追っかける不埒な人間……この女も狙う気か……。
いっそのこと、こいつが校長をかどわかした犯人であってほしい、とも楡井は思う。だが事実は事実。
残念ながら、あの夜見た男は真壁ではない。
そうしてやっと町へ出た楡井、念仏みたくぶつぶつ文句を垂れるのだったが、間もなく、思いがけない幸運が待っていた。
ところで、この少し前。
朝の堀部は身支度を手際良く済ませ、早めに家を出ていた。車中、堀部は口のにおいを何度も気にした。
「夕べの狐は臭過ぎた」
今朝は署に寄るつもりはなく、聞き込みに直行する。まず初めに向うのは造材屋・小野田達吉の家宅だ。これは昨夜、
「今や朝令暮改。署に行けば、昨日と違う命令をされるかも分からんぞ」
などと谷山に言われ、
「署長には俺から伝えといてやろう」
と、そそのかされたことも関係する。
堀部の身分は警察が保証するものであり、車は警察の所有物だった。特別な事情がない限り、堀部が署に出勤するのは義務である。しかしこの日だけは、やれるだけやれる、時間的余裕が1分1秒でも多くほしいと考えていた。私的な都合で規則を軽んじるのは彼の肯定するところではない。それでも、事件の捜査は今日で終了かもしれず、期限があるなら、せめて1日くらい自由に使わせてもらう必要があったのだ。
本来、焼死体発見は町の治安を脅かす異様な事件であり、殺人捜査専門の彼が最優先で取り掛かるべき重要案件に当たる。戦時の非常事態の中、
「本来の職務をどこまで果たせるか。そのために、どこまで許されるか」
この問いに出した彼なりの答えが、現在の行動なのだった。その意味では、谷山はわずかに背中を押しただけに過ぎず、堀部は分かって口車に乗ったというのが正確である。
「小野田達吉、玉田高太郎、古谷源造……」
彼の口から、今日中に会うべき相手の名が挙がった。