あらすじ
疑惑の目を炭鉱業の源造らに向けた堀部だったが、そのころ町で騒ぎが勃発する。ある朝鮮人が、ソ連側のスパイと疑われ、島民らに襲われたのだ。見かねた青年・篤志が、どうにか朝鮮人を助け出し、堀部の家に一時かくまってもらう。そこを、かぎつけた1人の島民が襲い、堀部はやむなく島民を射殺する。
4 先手
前夜である。
スパイ騒ぎも収まったころ、源造はわざわざ真壁の自宅を訪れ、しきりに言い合いを重ねた。
「このたわけが」
源造の表情がかつてないほど険しい。
「馳走の用意もなく、どうやって客人を迎えるのだ」
「わ、私のせいでは」
「貴様以外で誰が分かる、あの女は死んだんだぞ!」
「うう……」
源造は殴り掛かりでもしそうな剣幕だ。
「この私が危ない橋を渡ろうとしたのも、あの女の持ってるものが確かだったからだ。それを失くすとは……。愚かにもほどがある」
「き、きっとまだどこかに……」
真壁はハッと思い付いた。
「も、もしかして、私たちのことを知った奴が妨害しようとして……」
「誰がだ?」
「わ、分かりません……」
源造はあきれた。ほぞを噛む真壁に、
「馬鹿め。……で、あっちの処理はどうした?」
「それは既に」
「あの女と違い、きちんと焼却したのだろうな?」
「そこまでは……」
この返答に、源造は怒り心頭となり、「何だと? あれこそ確実に処分せんか! どうしてお前はそう愚かなのだ!」
「……」
こうして立て続けに続く源造の叱責だったが、真壁は納得いかず腹が煮えた。今回の件、彼はあくまで木下則子の『付き人』に過ぎず、首謀者は則子、その協力者が源造たちだった。真壁は彼女の指示で動くことはあっても、自分で判断する責任や、その場面など決してありはしなかったし、特に求められもしやしなかったのだ。
そう……。
いわば雑用としていいように使われ、その見返りとして、おこぼれにあずかるのが今回の話であったはずなのだ。
それなのに……。
源造は彼女がいなくなった途端、「貴様が責任を取れ!」などと、筋の通らぬことを強要してくる傍若無人ぶりではないか。
彼女と愛人関係にあったとて、別問題ではないか……。
「おい、貴様聞いているのか!」
真壁は噴き出しそうな怒りを抑え、源造の仕打ちに耐えた。
しかし胸の内では、
かくなる上は……。
◇◇◇◇
「堀部さんは?」
この日、篤志は朝から訳あって警察署を尋ねた。
「体調を崩して今日は休みだ」
昨日の件、楡井から探すのを頼まれた男のことで堀部に助力を願えないか、そう考えてみてのことである。
不在ではどうにもならん……。
「そう。谷山さんも体にはお気を付けて」
篤志は足早に署を後にした。
「誰だね、あの青年は?」
彼が去り、横で見ていた署長が谷山にけげんげに聞いた。
「顔に殴られた痕があったぞ。昨日の関係者か?」
「彼は被害者ですよ」
「左腕がないのはどういうわけだ? やくざ者じゃないだろうね」
「そうではないだろうと」
「確かか?」
「それは……」
「ここのところ、署がまるで島民の集会所のようでもある。昨日のような事件が起きたのも警察の威信の低下が一つの原因だ。谷山君、君はその親しみやすさが良いところではあるが、状況をよく見て、使いどころはわきまえてくれたまえよ」
署長は周りを見渡した。
「ところで、谷山君」
「はい」
「君に話があるのだが……」
この日は8月11日。
昨日の疲れがどっと出たか、今朝の堀部は高熱を出し、力なく床にふせっていた。
「……う、うーん……」熱で気も弱ったか、「歩、縁……」
うわ言のように、息子と娘の名前をぽつぽつ呼ぶ。堀部は今一人暮らしである。年も、もう50半ば。彼自身、想像はまだつかないのだが、この時代、そろそろ引退を考え、子供も結婚していれば孫だっていていいころでもある。けれど、彼がよほど心配なのは自分のことより、残った家族の安否の方。妻は対米開戦直前、病で死んだ。
……ぐう。
堀部の腹がいやしく鳴った。こういうとき、一人暮らしの不便さを思い知らされる。風邪は引きたくない。もともと小食の彼、それでも腹が減るときは減ってしまうが、何を食うか……。
孤独の気分も自ずと高まる。
「……面倒な」
とにもかくにもこの日の堀部、このままだと捜査の時間浪費は嫌でも避けられそうもなかった。
さて、ある家の前で、篤志はふらふら様子を伺った。
行こうか行くまいか……。
先ほど堀部に会えなかったのは残念であった。とはいえ、そもそも木下則子の事件捜査が忙しい堀部である。篤志には、こちらからお願いをすることが仕事の邪魔にならないか、という気の引け目もあり、すぐに諦めはついた。そこで、
……彼女に聞いてみるか。
こう思い、ここまで来てみたのだ。ただ、いざ来てみると、またあの校門前での時間が止まった気分を思い出すようで、
どうしよう……。
と、そのとき。
「あのう、うちに何か?」
知らない男性に声掛けられた。すぐに状況を察し、篤志はおっかなびっくり動揺する。
「あの自分は……」
男性の隣には、サエがしれっと並んで立っているのだ。
「ええっと……」
「お父さん、こちら私の知り合いの篤志さん」絶好のサエの助け舟であった。
「そうですか。初めまして」
サエの父は礼儀正しく挨拶した。篤志も素早く、「は、初めまして」ご丁寧に返す。
そうして間もなく……。
「びっくりしたあ」
と篤志。
「私もです」
とサエも微笑む。
「君のお父さん、銀行員だったのか。仕事は堅そうだけど、理解のありそうなお父さんだ」
篤志はハッと不安そうに、
「俺の印象、悪くなかったかな?」
「人の家の前をふらふらしてたんですから、良いとはいえなかったんじゃないですか?」
「ええ、本当に?」
2人は特に当てもなく、歩きながら話した。篤志がサエの笑顔を十分堪能したころ、
「サエ、分かるかな、君の学校で……」
楡井に聞いた話を切り出してみた。
「ごめんなさい。心当たりありません」
「そう」
これで仕方がない。
楡井には悪いと思うが、これで篤志にできることはなくなった。別の糸口でも見つかればいいが、彼への借りは別の形で返すことになりそうだ。