「何ですか?」
じっと後を付いてくる青年に少女はたまりかねたのだ。
「君、奇麗だね」
少女の両耳がほんのり赤らむのを篤志は見逃さない。
「失礼。奇麗だなんて聞き飽きてるでしょう。見るからに、もてそうだ」
「そんなことありません……」
「儚いね。不安でもあるの?」
「……」
篤志はたたみ掛けた。
「これまで君に気付かなかったのが不思議だ。時間が悪かったのかなあ。下校はいつもこの時刻? それとも今日は気分転換で帰り道を変えたかな?」
「人も見てますから……」
「人ってどの人? あの材木屋の主人は博打好きが祟り、女房が出ていったろくでなしだから眼中になし。あっちの金物屋の女房は炭鉱夫と不倫してるし、向こうからやってくる郵便配達は切手をくすねてる盗っ人じゃないか。……おっと、こいつは特に内緒の話。……今、後ろから通り過ぎたのは銀行員なんだけど、兵役逃れって噂がある」
止まらない篤志の口上に、
「怖い話しないでください」
少女は縮こまった。
「信じてくれるんだ。可愛い」
篤志の頬にえくぼが浮かんだ。少女は嘘話と気付き、自尊心が傷付いたか、ぱっと目を伏せてしまう。
当然の反応だったろう。むしろ、分かっていながら悪いことをした。篤志は反省する。
「ごめんなさい。年甲斐もなく舞い上がってしまいました。さっきの話は面白おかしくしようと嘘も混じっているけど、全部じゃないんだ。これ以上は迷惑だね……では、さようなら」
篤志はすっと立ち止まり、それ以上少女に付いていこうとはしなかった。どうにか変質漢の汚名だけは残さぬよう、せめてその努力の影を残し、この場はお別れしたかったのだ。
別れ際の哀しげな表情だけは忘れない。
「ちらっとくらい、振り向くかな」
少女に振り返る気配はなかった。こうなると彼、待つのが苦手な生来の気質が先に立ってしまう。
ふうっと息を吸い込み、
「おわびに、俺の正体を教えましょう!」
突然の大声に、通り中の人目が引き付けられた。それは少女も例外ではなかった。
「俺の正体はあ!」
ばっと両腕を広げる篤志に少女の瞳が丸くなった。
「右と左が違う形をした、ただの酪農家! だから知っている! そんな奴でも西洋人には負けないと! 帝国万歳!」
周囲が呆気にとられても、篤志は堂々と両腕を広げた。
いつまで続ける気か、どうしたら終わるのか。時間が経つにつれ、少女には片っぽだけ短い彼の腕が妙におかしくなってきた。これは差別とは違う意識である。いうなれば、流れる体液の熱さから来る滑稽さを全身で表現した人間への共感。
「ふふ」
少女の柔らかい唇から優しい息が漏れた。篤志はようやく、ようやく安堵した。さらに思い切って聞いてやる。
「俺は篤志、君の名は!」
少女の口元がぱくぱく上下したが、声が小さく届いてこない。篤志は懸命に唇を読んだ。
……分かった!
「サエさん!」
この後、彼女の声は届かなくても、微笑みなら十分伝わった。
「あの制服は」
と、篤志がこぼし、
「おかしな人……」
と、サエはつぶやいた。
その晩。
篤志の印象が消えないサエは、いつになく愉快な気持ちで、勉強中も自然と笑みがこぼれた。
「もう寝なさい」
父からそう言われても、サエは寝るのが惜しく、瞼を閉じてもそうそう寝付けないのだ。布団の中、彼女は左腕の切り傷をそっとさすった。
今夜は、ここ数日付きまとっていた不安を隻腕の青年が紛らわせてくれそうではある。
少女には抱えた不安があった。
上級生たちの意地悪が発端で、しばらくは確かにそうであったろう。しかし、ある日から、別の怖さが混じるようになったのだ。
とりわけ一昨日。
ついにサエは怪我を負い、痛さより怖さで泣き出しそうになった。放課後、一人で外にいたら、校舎の3階から花瓶を落とされ、あわや大惨事。幸い、跳ねた破片が当たっただけで大事には至らなかったものの、もしそうでなかったら……。想像するたび彼女は胸がばくばくした。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、その日の上級生たちはいつもよりしつこく、「どっち行くの、無視する気?」
真っ先に難癖を付けてくるのは1学年上の古谷スミレ。樺太で炭鉱を営む企業の社長令嬢だ。
「上級生に挨拶はするものですよ」
これはスミレの腰巾着で小野田妙子。父親とその一族が造材会社の経営者。
「能見と何話してたの。あなたたち、2人揃うと嫌味よね」
これもスミレの子分で松本正美。父親が郵便局長である。
3人とも島でそれなりの地位や立場にある親を持つ。引き換え、サエの父はしがない銀行員。世間一般から堅い職業とみられる程度で、この島では彼女たちがハイクラスだ。
彼女たちがどうして自分なんか標的にするのか。サエには分からない。
「あんた、呪われてるんじゃない? 肌が青白いもの」
こんな子供じみた侮蔑を向けられる覚えだってない。女教師の能見みよ子から、
「口外するんじゃありません」
こう突き放されたのも、気持ちの平衡をより乱した。校長先生は生徒たちを調べると言ってくれたが、
「先生たちも……」
と、要求する勇気はサエにはなかった。仮に勇気があっても同じことなのだ。それが規律なのだから。
あまり考え過ぎると涙が出そうになる。女教師の言う通り、こんな自分を知れば父だって落胆するに違いない。サエは布団に深くもぐり直し、今日のあの瞬間、あの場で直感したことをまた思い出した。
名前と顔しか知らないのに、彼の大事なとこだけはすべて受け止められたような気がしている。
……半分は嘘。でも半分は本当、それがあの人。
頭まで布団をかぶり、あの格好も真似てみる。それが意外にも新鮮で気持ち良い。
「帝国万歳」
恥ずかしげにつぶやいた。
翌朝。
どた、どた、どた。
地均しでもするかの如く、玉田高太郎がひどい剣幕で警察署に踏み込んできた。昨日、堀部が連行した高文の父親である。署員の誰もが昨日のうちに駆け付けてくるかと予想していたので、意外と遅かった。ただしそれは、我が子を甘やかさない、といった親心からではない。高太郎は製紙会社の社長だ。
「昨日は機械の調子が狂って、てんてこまい。そんなときにこれだ」
「心中お察しいたします……」
署長は堀部が来るまで彼をなだめる役に徹する。少しして、出勤してきた堀部に、
「向こうさん、来てるよ」
谷山が教えてくれる。
がちゃ。
戸が開いてすぐ、高太郎の血走った眼に堀部は迎えられた。
「ご子息はすぐ引き取らせるつもりだった。迎えが来なかったのだ」
堀部がこう説明しても、高太郎の文句はそこにはない。
「ちょっと巡視で手を抜いたくらいで、しょっぴくとは!」
堀部は唇を結んだ。
「我が帝国が今どんな状況にあるか! それに比べたらねえ、君。まったくささいなことじゃあないか」
「我々も職務ですので……」
と署長。
「警察の職務とは何かね? 治安を守ることだろう。じゃあ今日、我が国の治安を脅かす最たるものは何だい? え? 米国だろうに。そんなに職務に忠実なら米国を退治したまえ」
「社長、それは言い過ぎでは……」
「ふん、よくも私にそんな……。いいかい、製紙業は国造りにも通じる重要な産業なんだよ。君らが日々あくせく書いてる書類、紙がなきゃ書けんだろう。情報はそれを写す手段があって、初めて人に知れるのだ。議会の法案しかり、軍事機密しかり、家計簿しかりだ。樺太庁長官にも聞いてみたまえ! 私は紙を作ることで国を潤し、世界とも戦っとるんだ。ええ、君らとは違うのだよ!」
高太郎が帰った直後、
「本土だったらなあ! あんなでかい面はさせん!」
署長の体が自席で揺れた。
「あんな方でしたか。やけに感情的でした」
堀部は頭をかいた。
「機械の不具合はそれほど深刻で?」
「大したことないんだ。我が子が可愛いのだろう!」
工場の機械の故障は昨日の昼に見つかり、夕方前には直ったという。なら、その後にでも迎えに来られたものを、会議、会議でそれどころでなかったらしい。
……我が子が可愛いのか、どうなのか。
いぶかしくもなる。この日はこの後、特に目立った騒ぎや事件は起きず、島内は平静を保っているかに思えた。堀部が『あの連絡』を受けるのは、明くる日の朝になってのことである。