「こちらです」
それから道中、若者は会話に紛れ、堀部とやらを観察した。
「自然発火だと思っていましたが、事件性があるのですか?」
「いや、念のためにというやつです」
思いのほか慇懃な態度の堀部に、若者は気を許して話してしまう。
「林業が島の生命線というのは誰もが知っています。それに火をつけるやからがいるなんて、信じられません」
「まったくです」
この堀部という男、官憲連中特有の威圧感はあまり感じられず、身分証がなければ警察だと信じられただろうか。
……そうか、人手不足だからな。
彼はそう一人合点する。
「ましてや帝国は戦時下。国民が一致団結し外患に立ち向かっている最中、民衆の糧を脅かす内憂を起こすのだとしたら、そいつは何者でしょう。米国のスパイでしょうか?」
「どうでしょう。北国ですから、あり得るとしたらソ連でしょうか。……現場はここですね」
そこには、燃えた木々のにおいがまだだいぶ残っていた。堀部はざっと辺りを眺め、焼け跡に踏み入った。
「あなたが最初に火の手に気付いたんですね?」
「はい。2度目の巡視のときです。1度目で気付いていれば……。島民からも、自分の警戒が甘かったのではないかと責められてしまいました」
「それはお気の毒に。火は生き物ともいいますから、人間の目を欺くことだってあるでしょう」
「そう言っていただけると気が安らぎます」
「1度目の巡視の状況は思い出せますか?」
「はい」
彼は流暢に答えた。
「変哲のない夜でした。山火事は果たして木の根元から起きるのか、それとも上から燃えるのか、確率が不明なのです。巡視は全体を観察する必要がありまして、まさに『木を見て森も見る』ですよ。そうだ堀部さん。夜中にこうして木を見上げると、星が瞬き、奇麗なんです。……いけない。こんな調子だから住民からも信用されないんですよね。昨夜はやや風があったくらいで、長歩きで汗ばんだ肌も心地良く、集中力はいつも以上にあったつもりだったのですが……。ごめんなさい、全部言い訳に聞こえてしまいますよね」
堀部は首を振り、若者の肩を叩いた。
「そうそう、これだけ親身にご案内していただきながらお名前を伺うのを忘れていました」
「玉田です。玉田高文」
「玉田さん。もしかして製紙会社の?」
「ええ。父がやってる会社です」
「なるほど」
来た道を戻り、事務所の他の職員らとも一通り話した堀部は、
「所内を見て回っても? 寝床はあちらですか」
こうして小柄の体躯を揺らし、ちょこちょこ動き回る彼の後ろ姿は小動物みたいで可愛らしく映る。
「これで、やれることはやったかな。ご案内ありがとうございました」
「ご苦労様です。お茶でもいかがです」
「すぐ帰りますので。ところで、少し気になったのは玉田さん、あなたの寝床。あの一番奥の部屋があなたの寝床ですよね? 建物の造りのせいでしょうけど、隙間風が結構入ってくるようですね」
「そうなんですよ。今日にでも変えてくれと頼むつもりです」
「ここでは、あなたが一番下っ端と伺いましたが」
「多分大丈夫です」
高文には余裕があった。
「それは良かった……」
こう言ってすぐ、堀部は彼の腕をつかんだ。
「では玉田高文さん、署まで連行します、付いてきなさい」
「何だって?」
これには周りの職員らもなぜだと驚きを隠せない。
「どうして自分が連行されるのですか?」
当然抵抗してくる高文へ、
「あなたは巡視を2度行ったと話したが、嘘だ。1度目の時間にはまだ寝床にいたね」
堀部は言い放った。
「心外だ。自分は……」
「ここへ来る前、山火事に駆け付けた島民たちとも話したんだよ。みな口を揃え、昨夜は風が強かったが弱まってくれたので助かった、と言っていたのに、あなたは巡視中やや風があったくらいで心地良かったという」
高文の黒目が小刻みに揺れ、周りの職員もぐいぐいっと前のめりになる。
「あなたは1度目の巡回へ行くべき時刻に、あの寝床にいて外の風を感じなかった。それでも、あの小部屋は隙間風が通る。状況次第でそれを心地良く感じることもあったでしょう」
堀部は上着に手を入れ、つまんだものを突き出した。女性ものの靴下であった。
「詳細はここでは聞きません。聞く方も困りますから」
「ひ、火を放ったわけじゃない!」
「火防の職務怠慢も軽い罪じゃない。さあ」
こうした噂はたちまち島民に伝わるものである。それも、
「彼は車に乗せられるぎりぎりまで往生際が悪かった」
とか、
「泣いて見逃してくれと懇願した」
だとか、
「父親の名を連呼した」
などと尾ひれを伴い、昼は職場、夜は家庭の気晴らしで十分な肴となったろう。
「ほらな。おかしいと思ったんだよ」
その夜、仕事から帰った寝不足の男は最初に疑問を持ったのは自分だと、細君に自慢げに語ったはずだ。それを聞いた細君はきっとこう諭した。
「思うだけなら、誰でもできる。証明するのが難しいんじゃ」
もともと堀部は殺人事件が専門の刑事なのだが、戦時の人手不足で窃盗に詐欺、贈賄、器物損壊、そして放火と幅広に職務を任されている。それだけ優秀だからというのもある。本人は、力量を過信されるのを嫌う性質だ。子供たちがみな戦争に出ているのも謙遜が強い心理に傾かせていただろう。署に戻ると、彼の同僚・谷山藤吉がすり寄り、耳元でささやいた。
「玉田んとこのせがれ、捕まえたの?」
「逮捕じゃない。お灸をすえるだけだ」
「うん? そうなの?」
谷山はちっと舌打ちし、いたずらっぽく笑った。それからやはり署長に呼ばれ、
「確かだね、確かなんだね? ああ、私の在任中にこんな……相変わらず矛盾を捉えるのは見事だな……樺太庁長官にはなんと……」
止まらない愚痴の前で、堀部は閉口するしかない。
別の部屋では、
「ちくしょう!」
高文の嘆きがうなった。
さて……。
この日、軟派の場所だけは変えてみようかと篤志が思案しだしたとき、一人の少女がお眼鏡に留まった。
「あの制服」
先ほどの女学生らが、野良娘かと思うほどの白い肌、切れ長の瞳。人によっては不健康な青白さと映るかもだが、まだ成熟の途上にあるのを示す証拠ともいえる。それでいて、長い黒髪を後ろで結び、ぴっと立った背筋の前でゆらゆら揺らす姿は年齢以上の艶っぽさを醸しだしていた。
少女は青年に見向きもしない。
それがかえって気にさせるのだ。