若くて、美人、それに賢い。
こうした才色兼備が思春期の女子ばかりの校内で人気を得るには、こつがあった。愛嬌だ。サエが通う高等女学校の生徒で、その最たるが、5学年の古谷スミレである。
社長令嬢の境遇に甘んじることなく、頭が冴え、同窓への目配りや人当たりもよく、「他校との交流にも積極果敢な社交家」などと、表向き好意的な評価がおよそ挙げ尽される才女なのだ。
「お国のために命を懸ける方々にこそ、満足に食べてもらいたいのです」
こんな鶴の一声により、島の軍人さんたちを学校を挙げ馳走したことだってある。馳走の発案自体は良いものであり、サエにとっても、「軍人さんも色々なのだなあ」と改めて知る機会となった。
当初の想像通り、軍人さんには怖そうだったり、無口だったり、ぶっきらぼうだったりする人もいたが、ある人は知的な好青年で、軽妙な会話が女学生らの注目を浴びていた。
「小説の中で一番でくわすものは……」
彼が引用する作家の冗談話は、女学生らにはやや刺激が強めであったものの、そこがかえって知的なのであり、サエもつい、ふらふらっと耳を傾けたのである。
確か、チェーホフとかいう作家だ。
「その後、この登場人物はどう言ったと思われますか?」
不意にこう問われて驚いた。油断していたのと、他の女学生らの視線が恥ずかしいのとでサエは何も答えられなかったが、いや、楽しい時間だった。
それだけに残念。
思いには共感したのに……。
スミレの本性を知った今となっては、狐か狸にでも化かされたようで、もしや、あの軍人さんたちまで彼女が欺いていたのかと思うと、こっちの胸が苦しくなる。思春期の少女らしく、サエは多感だった。
あれから数週間後の今日。
放課後、うつむくサエに目の前の女教師は容赦ない。
「今が大事な時期だわ。勉学意外に気を取られるんじゃありません」
「気を取られては……」
「何です?」
残念ながらこの教師、愛嬌とは縁遠いようである。
「牧田さん、昨日男の人と歩いていたでしょう」
女教師の問いには冷たく、かつ重い調子が漂い、空気を暗くする。
「……声を掛けられただけです」
「妙なこと叫んでたわね、あの彼氏。それなのに牧田さん、微笑んでなかった?」
一部始終見られている……。
そう思ったら一層、彼女は臆してしまうのだ。
この日は8月7日。
校舎内では放課の少し前、違う2人が言い合う姿もあった。一人はこの女学校の教頭を務める真壁一。しきりに相手を問い詰めている。彼は中肉中背の体を揺らし、ひどくイライラ、あるいは焦った調子でもあった。
「本当に確かだろうね? 俺たちはただ待ってりゃいい、そうなんだね?」
「決めたことでしょう。じたばたするんじゃないの」
こう話す女性、木下則子は真壁と比べ、ずっと落ち着きがある。彼女はこの女学校の校長であり、30代後半の彼より年は10ほど上に見えた。しかし美人だ。
「信ずる志操さえあれば、それに忠実にしていればいいのよ」
「ふっ、信ずる志操か……」
真壁は懐から酒瓶を出し、ぐびぐびあおりだした。
「外はまだ明るいのよ」
「構うもんか。俺が生徒に教えるわけじゃない。……あいつらは涼しい顔していやがる……」
「あなたに足りないのは経験。彼らの方が年配よ、気の持ちようが異なるわ」
「なるほど経験か……。どうだかなあ。これからの時代に、あいつらの経験が役に立つのかなあ!」
真壁がまた酒をあおろうとしたところで、則子は手首をつかんだ。
「そこまでにしなさい」
流れに任せ、すっと口づけする。
「わ、悪かった……」
真壁はどぎまぎし、二三歩うろうろしたのち、校長室をそそくさと出ていった。
「やれやれ」
則子にとって、彼は大切な男ではあるが、今はそれより重要な問題があった。その話がまとまったのが、つい昨日のこと。昨夜、この校長室には真壁の他もう3人いたのだが、このとき最もふてぶてしかったのが、あの炭鉱屋の古谷源造だった。源造は小役人でも見下ろすように、
「商売人は勝っても負けても損をしない。それが商売よ」
などと科白を垂れ、しまいには、
「確かな話を持ち掛けてくるなら、せいぜい対応はしておこう。なあ、お前ら」
強気に場を仕切ろうとする。こう強気になれるだけ、金の力がある証拠。古谷一家は、妻も娘もよく似たものだった。
「まあ、あれくらいでないとね。それに比べ……」
製紙屋の玉田高太郎、彼は弱者に強い小心者で、こういう方がかえって扱いづらい。
「本当にそんな……どうにかなりませんか?」
「無理に決まってるじゃない」
「こちらはごたごたが重なって……頭の整理がつかんのですよ」
「事実は事実。私はあなたたちを困らせたいんじゃない、守りたいから話してるのよ」
「う、うーん……」
この高太郎と比較したら、造材屋の小野田達吉の方が幾分か胆が据わっていた。あくまで幾分である。達吉は普段から口数少なく、この日もほぼ聞き役に回った。目立った発言は、
「うちと玉田さんは一蓮托生だから」
これくらいしか則子の記憶にはない。
「……結局、私に従うしかないのよ」
さて、則子が気を取り直そうとしたとき、
「失礼します」
一人の女教師が入ってきた。
「今、大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。何かしら?」
女教師は一呼吸置き、
「牧田サエのことなのですが……」
この名前で、則子が思い浮かべることは二つある。一つは、先日彼女が怪我をした件。花瓶を落とした犯人を探すと約束していた。もう一つは、たまたま廊下で鉢合わせとなったある日、落とした書類を親切に拾ってくれたことである。それまで特に印象はなかったのだが、間近で見た白い肌が美しく、思わず羨ましくなったのは記憶に鮮明だ。
とうの女教師が知りたかったのは前者の進展であり、
「当時の可能性から、生徒を絞り込んでいるところ」
との返答を得た。
「最近、上級生の風紀に乱れがあるようにも感じています」
女教師は、昨日遅くに学校にみえた父兄の一部とスミレたちを連想して言ったのだが、
「そうなのですか?」
則子は意図が分からない風だった。女教師はまた呼吸を置き、
「しかも、広島に落とされたという爆弾。あれに動揺する生徒もいるようで。それに」
彼女は校長室へ来る途中、真壁教頭と出くわしたことを話し始めた。真壁はどこか落ち着きがなく、彼女が挨拶しても上の空で、
「あ、ああ」
そう素っ気なく返すだけであったという。どちらかといえば他人に気が利き、礼儀正しい男性との認識があっただけに、彼女には違和感だった。ただ、ここで問題にしたかったのは彼から無愛想にされたことではない。
「お酒のにおいが少し」
と、明かした。
「動揺しているのは、教師も同じなのではありません?」
この答えは、彼女が期待していたのと異なる。言われてみれば、真壁は怯えたようではあったけれども、校内で飲酒など、どんな立場の者であれ教育者として許されるはずがないのだ。そんな彼女の心中を察したのか、
「私も、戦争を怠惰の言い訳にはしたくありません」
などと、則子は言ってくる。
「能見先生は大丈夫よね?」
「私は大丈夫です」
「頼もしいですね。風紀の乱れは、私も感じ始めていたところです。牧田サエに起きた事件の件と、真壁教頭のことは私に任せ、能見先生は授業に専念してください」
「はい……」
そうして、この後、サエは呼び止められ、先ほどの顛末となるのだ。呼び止めた女教師は上級生に外国語を教える、名を能見みよ子といった。