eichi_katayama blog

確かかなと思った言葉を気ままに。あと、ヤフコメアーカイブ

【小説連載】刑事堀部(23)~りぃ その2

……女の話でもするか。

ありきたりに、今度はそう考える。けれど、女のことでは、ひわいでいやらしい思い出話しか彼にはない。彼にとっては、また味わいたい甘美な思い出ではあったが、ここで披歴することもないだろう。

……こいつには知られてることも多いしな。

ただそうすると、話すことがないじゃないか。

楡井は酒をちびちび飲みつつ、考え込んだ。篤志がわざわざここへ来た訳は、自分の勘が外れたことと、木下則子殺害の事件解決がもう見通せなくなった、少なくとも相当厳しくなった事実を楡井に伝えるためだった。しかし、篤志のこの雰囲気……。単に情報を伝えるだけの親切心が彼を動かしたのではなさそうである。

……馬鹿な俺には分からん。

 

ことが難しくなってくると、楡井はすぐ馬鹿を理由にし、さじを投げる癖がある。いけない性分とは思っている。どうしようもないのだ。彼には家族もいないし、金もないし、学もなければ知恵もない。女の趣味も悪くて独り身だし、ただ年だけ食って生きている。そんな彼に何ができる。

そうだ、すべては俺の間違いだった……俺がこいつに協力を頼まなければ、俺があの人に妙な恋心を抱かなければ、俺がここで働いていなければ、俺がこいつと出会っていなければ……。

楡井は一人でにしょんぼりする。

……すまねえな、りぃ。

篤志がふっと笑った。何てことはない、彼にはこれでいいのだ。

 

さて、この少し前。

サエは今夜の出港に向けた準備を終え、父と一緒に家を出た。

「サエ、証明書もきちんと持ったかい?」

「はい」

通りにはサエたち同様、荷物を背負った女や子供、その夫に父親、家族たちが港を目指して歩いている。バスや自家用車を使う者や、遠いところでは行けるとこまで鉄道に乗る手段もあった。サエは半日かけて歩いていくのだ。2人は途中で別れた。

「行ってきます」

「焦らず、みんなに付いていけば安心だ」

サエの父には仕事があった。父に見送られ、彼女は一人、前を向いた。小さなころから、一人のお使いだって慣れたものである。サエには母がいない。父によると、産後の肥立ちが悪く、サエを産んでほどなく亡くなったのだそうだ。これは別に珍しいことではなかった。

しばらくして、サエは周りをきょろきょろしだした。

……篤志さん。

自分を見送りに、篤志が来てくれるのではないかと思ったのだ。一昨日の唇の感触は覚えている。

またああやって……。

サエはほおけた。

そのとき別の通りでは、島民らに好奇の目を向けられる一家がいた。

売国奴の家族」

「人殺しの一家」

心無い非難を浴びせられ、スミレとその母もまた他の疎開者たちに紛れ、寄り添って歩いていた。木下則子殺害の疑惑は警察も伏せたままだが、古谷源造、小野田達吉、真壁一らへの逆賊の疑いと、彼らの共謀による玉田高太郎殺害の件は世間にも知られた。古谷家の使用人はみな、今朝までに家を離れた。

 

スミレの母はひどく緊張、いや怯えたようであり、顔も手もこわばっている。昨日の今日であれば無理もない。ただ昨日より震えさせたのは、源造の事実が明るみに出たことで島民らの非難は単なる誹謗中傷ではなく、軽蔑と排他に変わっていたことだ。それはスミレもよく分かっている。

「安心してお母様。私が付いています」

母は娘を頼りにした。それからも、

「同じ船にはなりたくねえや」

「泳いで行けば?」

ソ連に行きなさいよ」

「どこまで助かりたいのだか」

「見ては駄目。あれは恥さらしというの」

などと、精神を追い詰められ、道のりが途方もなく長く感じられた。中でもスミレには、

「あんな奴らのために軍人さんが命を落としたなんて、やるせえねぜ」

これが一番こたえた。国を案じる真心が傷付いた。何より、尊史に面目が立たない。

いや……。

奇麗ごとだ。妬みや猜疑心に駆られ、人を呪うのは彼女も同じであったのだ。振り返れば、ついこの間のことではないか。忘れるはずもなく、もし忘れたとしたら、それこそ彼女は売国奴にも匹敵する。

今は戦時下、売国は大罪であり、象徴的な悪である。それは政府や軍隊から見た判断かもしれないが、庶民にも同じに思える節がある。勝手に売るなよ、俺たちもいるぜ。そう言いたいのだ。

多くの人にその機会はない。機会があっても口下手の恐れもある。源造にはそれが分からず、分かっていても、いつしか重要ではなくなり、保身に走った。軍隊や世相への非難も含まれた行為だった可能性はある。ただ、そもそも、源造の手元には売ってもいい国などなかったし、彼が国だと思っていた代物は吹けば崩れる砂山だった。

賢い人はとっくに知っていた。

愚か者でも、「敵を信じるな」と、たった一言、単純な常識さえ備えていれば、国を売ったら生き延びられる、なんて夢物語には飛び付かなかった。

売買に例えるなら、この国は売るのではなく、買い戻さなければならなかった。

何からか? 

政府か? 軍隊か? 大衆か? 違う、歴史の埋没からだ。一人一人が歴史になる、その思いがなければこの国は敗戦後、前世を忘れた別の生き物の溜まり場となり、また同じことを繰り返す。スミレはそうはなりたくなかった。

そんな彼女の気は知らず、人に紛れ、スミレを見ていた少女が言った。

「ああなってはお終いね。ねえ、サエさん」

 

「……」

「遠慮することないのよ。あなただって、いじめられてたのだから」

サエと偶然出会った松本正美が、悪びれずサエとおしゃべりしていた。

「彼女に逆らえなかっただけなの」正美は首を振った。

「うちとあの家では力が違うのだから。分かるでしょう? 逆らえば、私がひどい仕打ちを受けたかも。サエさんも、それは望まないでしょう?」

「はあ……」

「いけなかったと反省してる」

「はい」

「では、仲直りよね」

正美は両手の荷物を下ろし、サエの手を握った。

「本土で会ったら、お茶でもしましょう」

そう言って手を振った彼女、家族と共に消えてった。

スミレと母の周囲には依然、陰口と非難が飛ぶ。

彼女らの歩く方向、曲がる方向で、何人も島民が通り掛かり、そのうちの一人が、すれ違ったある少女のつぶやきを聞いた。周りの大勢も口々に吐いていた罵詈雑言の類だったので、その場は特に気にも留めなかった。

けれど、振り返ってみるとやや妙な言葉の使い方だった気もする。

確かにあのとき、少女はこうつぶやいていた。

「お前が言うな」

その島民はちと思案したが、「まあどうでもいいか」用事へ急いだ。

 

そうして昼前。

 

続く