あらすじ
フライハイヤーズの編成会議。夕子が推す下手投げの高校生左腕、竜に興味を示す周。その活躍を夕子は約束し、父親の大泉にも竜を獲ると伝える。
3
この日の昼前、智は勤め先の建設会社で社員らと打ち合わせだった。
現在進行中の工事の件で、工期をもっと短くできないか、と営業部門から催促されるが、智は厳しいと伝える。最近の工事受注は好調。しかし人手が追い付かず、現場はやりくりにてんやわんやである。開催前、あれだけ騒いだオリンピックもあっという間に終わり、五輪需要が消えた建設業界の先行きに不透明感もあったが、この国のインフラ強化や都市部再開発のニーズはむしろ高まりをみせ、智の会社もうまく立ち回っていた。
それでも人手不足だけはどうにもならず、外国人労働者を雇っても技量には差があるため、それを補う知恵と工夫で、元請は頭を悩ませる日々である。
午後、智は施工管理を担当する建設現場の入り口付近で、老齢の警備員から大声で挨拶される。「ご苦労様」と返し、現場に入るのはいつものこと、気持ちを切り替える儀式みたいなものだと勝手に決めている。現場事務所の仲間たちにも会釈し、智は更衣室でスーツから作業服に着替えた。
智の部下(35)が、するするやってくる。
「お疲れです。本社ですか?」
「ああ。最近他の現場で工期の遅れが目立つって警告されたよ」
部下は苦笑いし、
「ご苦労様です。息子さんは調子どうですか?」
「どうして?」
「期待してるんですって。何てったって、こうですからね、こう」
そう言うと、部下は左腕を下から上に振る仕草をするのだ。
「逸材ですよ」
「ありがとう。そんなことより、こっちに変わりはないよな」
「現場は……ですが」
「あれか」
智と部下は表に出て、現場の仮囲い前に立った。仮囲いには工事中止を求める複数のビラが貼られている。内容は結構辛辣だ。
「どうしたものかな」
「現場の俺らに言われても、どうしようもないですしね」
「うーん……。でもまだ、この程度ならな」
智は申し訳なさそうに貼り紙を剥がした。
同じ頃。ある大学野球部のグラウンドのネット裏で、夕子とサラは並んで練習を視察した。
スパンッ、ダン、ダダッ!
投球、打球、走塁それぞれの音が練習の激しさを物語る。しかし夕子は「ぬるいわ」と一言。
「どの辺がです?」サラが選手の観察に専念したまま意図を尋ねた。
「あのトスバッティング。放られたのを、ただしばいてる。打点王の高崎じゃないんだから。コーチも学生も、実戦の打席を想像できてないわ。いっぱい素振りして、身に付くのは筋力だけ。ああいうのを筋肉馬鹿というのよ。だけど……」
夕子はフリーバッティングを続ける板倉大地(22)を指差した。
「彼はいけるわ」
「彼は、広角に打てます」
「それを支えているのは何か。よく見て」
板倉がバッティングピッチャーのボールを大きく打ち返した。サラは打球を目で追ったが、夕子は板倉から目を離さない。
「低めのボールに対し、下半身で反応して沈み込むの。あの下半身の粘り。プロの変化球こそ、彼にはふさわしい栄養剤だわ」
こう話す夕子の脳裏に、昔の実家のたたずまいが浮かんだ。随所に檜を用いた2階建てで、黒い瓦を葺いた重厚な外観は少女時代の彼女にも誇らしく、両親も健在な彼女の世界は潤っていた。当時7歳の夕子は、芝生の庭でよくよく父(30)からスイングを教わり幸せだった。
「いいぞ。夕子は生まれつき下半身が強い。お父さんと同じプロ野球選手になれるかもしれないな」
あの日は、永遠に失われた。
夕子の意識が今に戻る。同じネット裏に、ブラックマウンテンズのスカウトマン・川口万太郎(50)が堂々と現れる。
「これはこれは。桐生さんとそのお供じゃないですか」
夕子は彼と目を合わさない。川口は小さな体に大きめのスーツが定番のスタイルで、どんな時期でもネクタイを欠かさないのが、長年のこだわりである。それがこの男の面倒臭さを象徴しているようで、夕子は嫌い。仕事の相性も合わなかったから、見た目もますます嫌いになる。こうした時、「どうも」と愛想良くするのがサラの役目でもあった。
「今日は絶好の視察日和ですなぁ。ドラフト前の最終確認ですか?」
「他に用があります?」
「ほ、ほう。お目当てを隠す気はないと」
「本当にいい選手は誰の目にも明らかですもの」
「確かに」
こう言いつつ、川口はそわそわした。平静を装い、
「来季は球団史上初の日本シリーズ3連覇が懸かってますから。あなたが抜けて、スカウティングが落ちたと言われないよう必死ですよ。うちもドラフトで必ず獲ったりますよ、彼を」
自信を持って川口が差したのは、板倉とは別の学生。サラは笑いをこらえた。夕子は遠慮なく、正面を向いたまま思いっきり笑ってやる。
「な、何だ、何だ!」
「次行くよ」
「はい」
「お、おい! くそ……」
訳が分からず、川口は苦虫を噛むしかない。気分は敗北だ。
陽が暮れてきた。高校野球部のグラウンドに竜がいる。
本日の練習も終盤。部員の練習着はどれも汗と土で真っ黒けっけだ。買い物帰りにグラウンド脇を通りすがった自転車のおばさんや、見学がもう日課になっているじいさんが、頑張る少年たちに激励の眼差しをあげる。マウンドの竜は左腕のアンダースローを繰り返し、バッターからことごとくアウトを獲った。
ベンチの片隅で、マネージャーの桐生妙(18)が竜の投球を見守る。すっかり陽も暮れ、竜は誰もいないホームベースに最後の一球を投げて納得する。ベンチを振り向き、
「今日はここまで!」
そこには一人、親指を立てる妙がいた。
竜と妙は大通りの歩道を並んで歩いた。2人が一緒に下校するのは、もう珍しくもない。
「あーあ、今日は疲れた」
「朝練前の超朝練もあったもんね」
「一輝のやる気に当てられちゃったよ」
「練習熱心なのはいいけど、体壊さないでよ」
「アンダースローでも、肩や肘って壊れるのかな」
「壊れるでしょ」
「そしたら右に戻すか。でも、それじゃあな。希少価値がなくなる。せっかく巡ったドラフトのチャンスがふいになるよ」
妙の表情に不安がよぎった。
「……ねえ竜。本当にプロになりたい?」
「当たり前じゃん」
「どうして?」
「どうしてって。格好いいだろ。成功すれば莫大な金も入る」
「失敗したら?」
「ホストになる」
「はあ?」
「自分で言うのも恥ずかしいけど、俺ってさ、死んだ母さんに似たせいか、結構イケメンじゃん。顔だけは父さんに似なくてよかったと思ってんだ」
「要するに、失敗した時のことなんか、てんで考えてないと」
「さすが敏腕マネージャー。部員の気持ちをよく分かってる」
翌朝、球団本社ビルの会議室に、再び昨日と同じ面子が集められ、「先日の夕子の提案を一晩じっくり考えてみた。途中、ワインも開けてリラックスしてね」のっけから周が役員らの笑いを誘う。夕子は感情を現さない。彼の結論だけをただ待っている。
「夕子の提案は素晴らしい。少し僕の考えも入れさせてもらうが、ほぼそのまま採用させてもらおう」
夕子の代わりに、サラがほっとする。
「長丁場のシーズンを勝ち抜くには前半戦でいかに貯金をためられるかが鍵になる。そのために必要な即戦力と2年後、3年後を見据えた将来性とのバランスがいい。中でも、この左のアンダースローの子。興味深いね」
「彼は早ければレギュラーシーズンの後半。ポストシーズンまで進めれば、その短期決戦で活躍の期待が持てると思います」
説明する夕子に、「どこで見つけたの?」と周。彼女はきっぱり、「できる人間は運にも恵まれますので」これには役員から「いくらなんでも少し生意気じゃないか」なんて非難も出る。
「いいんだ。僕には分かる。君は高みを求めてる。高みに上らねばならない君なりの理由があるんだろう。悪びれた口ぶりはそんな自分への叱咤激励というところか。オーナーが君に惚れ込む理由がよく分かる気がするよ」
夕子は目をつむり、その横顔をサラがちらっとのぞいた。
夕子の頭の中は当然、彼女自身しか知れない。野球中継が流れるテレビの前で暴飲する父を、物陰から不安そうに見つめ、「ふんっ。くそボールじゃないか」と父が吐き捨てているイメージなんか、第三者に想像できるはずがない。
その日は夕子の母(30)も業を煮やし、テレビを消した。
「何すんだ!」
「あんなもの観たって、もうしょうがないじゃない!」
「俺はまだできるんだ! それなのに……」
父は泣き崩れた。まだ少女だった夕子は、何かしたくてもただ黙っているしかない。
不安が高まってきた少女時代のある日、夕子は公園の広場に行ったことがある。うつむきながら歩いていると、足元に野球のボールが転がってきた。土の上で、まだ新品に見える白いボールがよく映えた。ほどなく、「おーい」と呼び掛けてくる少年(10)の声。
「悪い。そのボール、返してくれ」
夕子が投げ返してやったボールは、真っ直ぐ少年の胸元に収まった。
「お前、女のくせにうまいんだな」
と少年。
「下半身で投げれば、ボールはしっかり飛ぶって」
「へえ」
広場の仲間から「早くしろ」と催促される。
「今行くよ。おいお前、1人足りなかったんだ。やってみない?」
少年の目は真剣だったと記憶している。だから、夕子も真顔でうなずいたのだ。
会議の後、夕子は建設現場の仮囲い前で一人、ぼうっとした。貼り紙が剥がれかけているのに気付き、貼り直す。
そこへ、智が恐る恐る近付いた。
「あのう……」
「こんにちは」
「こんなところでなく、自宅に来てもらえれば……」
「私は構いません。決まりましたから。息子さんを獲ります。育成枠で」
智は胸を撫で下ろし、
「ありがとうございます」
「ここの、責任者でいらっしゃるんですね」
「はい」
貼り直されたビラに、2人の視線が集中した。
「快く思われていない方には、ご迷惑でしかないでしょう。でも、この施設も完成すれば、きっと地域のためになると思うんです」
「地域のため、ですか」
「テナントは流行りの店舗だけじゃありません。診療所や子育て支援施設、自由に使える広場だってできます」
「広場? 野球もできるのかしら」
「野球、ですか? それはちょっと……」
「でしょうね。プロ野球はよくご覧になります?」
「もちろんです」
「応援しているチームは?」
「フライハイヤーズ、と言いたいところなんですが、特にこのチームというのはこれまで……。関東出身なので、本拠地が関東にあるチームに肩入れすることが多かったですかね」
「そう。なら来年は、心おきなくフライハイヤーズを応援するといいわ。優勝するから」
「それは、私もそう思います」
夕子はどきっとした。
「贔屓しているんじゃありません。フライハイヤーズは若手の活きがいいですからね。あの本塁打王の引退も、それがあってのことでしょう」
「そう」
と表情を取り繕った夕子。すぐに智が部下から呼ばれ、
「今行くよ。では息子のこと、よろしくお願いします」
そう言って去っていく背中が、彼女はやたら気になった。